増田惠子が語る「ピンク・レディー」の終焉「マスコミによって作られ、落とされた」

今年ソロデビュー40周年、そしてピンクレディー結成から45年を迎えた増田惠子がピンク・レディーの時代を振り返る特集。後編はアメリカ進出の話を中心に今だから話せる思い出を語ってもらった。

増田惠子【写真:荒川祐史】
増田惠子【写真:荒川祐史】

“終わりのはじまり”となった21歳の紅白出場辞退の記者会見

 今年ソロデビュー40周年、そしてピンクレディー結成から45年を迎えた増田惠子がピンク・レディーの時代を振り返る特集。後編はアメリカ進出の話を中心に今だから話せる思い出を語ってもらった。(取材・文=福嶋剛)

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 前回はピンク・レディーの結成、ミイとケイのハーモニーがどうやって生まれたのかというお話をさせていただきましたが、今回はアメリカでの活動について振り返っていきます。

 始まりは、「スター誕生!」(日本テレビ)までさかのぼります。合格したその日にプラカードをあげてくださったレコード会社の方や事務所の方たちと後楽園ホールにある中華料理屋さんに行き、次々とアピールしていただきました。その中にたった1人でいらっしゃった方が椅子にちょこんと座り「君たちをいつかアメリカのショービジネスに連れて行きたい」とひと言だけ言い残して帰っていきました。それがあまりにも衝撃的で、いつデビューするかも分からない私たちなのにそんなことを言ってくれる人がいるんだと思って運命的なものを感じました。その人はのちに私たちのプロデューサーになる相馬(一比古)さんで大手事務所から独立したばかりでした。

 ピンク・レディーとしてデビューしてからは大きな歯車も回り始めて、まるでジェットコースターの先頭に乗っているかのように猛スピードで走り続けました。そんな中、1978年の「第20回日本レコード大賞」で大賞をいただく1か月ぐらい前でした。私たちは突然「紅白歌合戦を辞退します」という記者会見を開きました。そこからすべてが大きく変わっていきました。

 振り返るとあの記者会見はとてもショッキングでした。相馬さんの意向で紅白を辞退するという動きは前から分かっていましたが、会見場から少し離れた場所に社長がいて、21歳の女の子2人だけがマスコミの矢面に立たされていたような、そんな記憶があります。それまではすごくかわいがっていただき、いつも応援してくださった大勢のマスコミのみなさんがまるで事件を起こした加害者に質問を浴びせるような会見だったので本当につらくて傷つきました。マスコミによって作られたピンク・レディーがマスコミによって落とされていく。そんな気持ちを覚えた一方で、これまで必死に育ててくださった相馬さんの抱えてきた葛藤や、最初にお会いしたときに約束してくださったアメリカ進出という長年の夢をいつか一緒にかなえたい。そんな複雑な思いを抱えていました。

 アメリカ進出の話はピンク・レディーがもっとも忙しい時期に突然やってきました。海外の有名なグループ「ノーランズ」をデビューさせた仕掛け人の方がたまたま来日していて後楽園球場で開催した7万人コンサート「ピンク・レディー ジャンピングサマーカーニバルコンサート」を見にきてくださり、「これならいける」と思っていただいたらしく、本当に突然私たちに話がきました。当時は忙しすぎてアメリカでデビューできるだけのスキルも余裕もなかったですし、英語もまったくできなかったので私はもっと実力を付けてから行きたいから今じゃないなって思っていました。

 でも運命とチャンスって準備ができたときに来るものではないんです。まるで観光客みたいに通訳を付けていただき、個人的にも英会話教室に通いました。当時は本当に超過密スケジュールで、マンツーマンのレッスンでしたが先生のきれいな発音が子守歌に聴こえてきて気持ち良く眠ってしまいました(笑)。

 そんな感じでしたから自信を持ってアメリカに渡ったわけではないんですが、今まで鍛えられてきた記憶力と集中力で臨みました。日本とはやり方のまったく違うアメリカのレコーディングを経験して完成したシングル「Kiss In The Dark」はビルボードの37位を記録しました。それをNBCの社長さんが知って「この子たちは面白い」と言ってくださって、NBCの看板番組「Pink Lady and Jeff」が始まりました。

9月に行われたソロ40周年ライブより【写真:舛元清香】
9月に行われたソロ40周年ライブより【写真:舛元清香】

本当は続けたかった、でもそれ以上にやり切ったと思えた4年と7か月

 当時、アメリカの看板番組ってリハーサル含めて1回の番組に5日間も製作期間をかけるんです。日本との違いに驚きながら「こんなに丁寧に作るんだ」って思いました。向こうはハッキリと仕事の役割が分かれているのでたとえばカメラのコードが引っかかりそうだといって日本みたいに自分でコードを触ってしまうと、その時点で仕事ができていないということで担当が1人クビになってしまうんです。だからぜったいにやらないでと言われたことを思い出しました。

 1時間の番組の中で英語の発音に気を付けながら毎回4、5曲新しい歌を覚えなければいけないですし、振り付けも日本とは違います。おまけに英語のコントまであって本当に大変でしたが、当時アメリカで大人気だったオズモンド・ブラザーズ(=オズモンズ)をはじめ、豪華なゲストがやってくるので、丸暗記の英会話でしたが、とても楽しかったです。最初は英語が苦手だった私ですが、最後は弁護士さんと交渉できるぐらいの会話力を身に付けたんですよ。……日本に帰ってきたら忘れちゃいましたが(笑)。「人間やる気になったらできないことはない!」その後の私の人生の羅針盤になりました。

 アメリカに渡って達成感を覚えたかと言われたら、私はそこまで達しなかったと思います。やっぱりネイティブに近い英語力を身につけてから行きたかったですし。でも大きな成長につながったことは間違いありません。22歳の頃にアメリカでお仕事をしたこともあこがれのアメリカのショービジネスを体験したことも大きかったです。ピンク・レディーとしてデビューから150パーセントの力で駆け抜けた4年7か月は私にとっての誇りです。

 最後に「もっとピンク・レディーを続けたかったですか?」という質問をいただいたのでお答えしたいと思います。

 私自身はいつまでできるか分からないけれど、レコード大賞をいただいたときに今まで背負ってきた重たい荷物を下ろして、やっとこれからピンク・レディーとして歌いたい曲を歌って音楽的に成長したいという気持ちがありました。ところが思わぬ方向に進んでしまい、あの会見をきっかけに「このままピンク・レディーは短命で終わってしまうかも」とすでに感じていました。もしかしたらあのとき……と思うこともありますが、それ以上に濃密だったピンク・レディーとしての時間。最後はやり切ったという気持ちでした。

□増田惠子(ますだ・けいこ)1957年9月2日生まれ、静岡県出身。O型。76年、ピンク・レディー「ペッパー警部」でデビュー。解散後は、81年11月、「すずめ」でソロ・デビュー。2010年、ピンク・レディーの「解散やめ!」を発表。2022年7月、ソロデビュー40周年を記念したアルバム「そして、ここから…[40th Anniversary Platinum Album]」をリリース。9月、ピンク・レディー最大のヒットを記録した「ベスト・ヒット・アルバム」を高音質SHM-CDで再発。12月25日、東京會舘で増田惠子「Christmas Dinner Show『そして、ここから・・・』」を開催。

次のページへ (2/2) 【写真】ピンク・レディーが1979年に全米ビルボードチャート37位という快挙を果たしたシングル「Kiss In The Dark」とアメリカでリリースされたアルバム「ピンク・レディー・イン・USA」
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