【オヤジの仕事】さかもと未明さん「娘には父が必要」 “昭和の父”よりイクメンの父

難病の膠原病や発達障害と闘ってきた【写真:山口比佐夫】
難病の膠原病や発達障害と闘ってきた【写真:山口比佐夫】

オシャレでかっこいい父親は洋館を建てて親孝行

 山下公園とか横浜マリンタワーとか、中華街にもよく連れて行ってくれました。父は昭和14年生まれなのに183~184センチと背が高く、当時にしてはオシャレでした。赤や黄色とグレーのコンビ、あるいはブルーのストライプのワイシャツに臙脂など華やかな外国製の太いタイを締め、デュポンとかのタイピン。海外の方との取引が多いから、そういうのをたくさんもらったみたい。靴はリーガルのウイング・チップ。

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 子どもたちにもオシャレをさせて、私と妹にはおそろいのレースのワンピースを着せたり、エナメルの靴を履かせたり。取引先の、アメリカンハウスにすむアメリカ人の子どもたちと同じような服装をさせたかったんでしょう。そういう家に必ずあった白い子供用のブランコなんかもうちにはありました。でも子どもたちの間では浮いちゃって、いじめの対象になったんですけどね。

 私が9歳のとき、横浜から厚木に家を建てて引っ越しました。そこは父の母が昔、暮らしていた所で、一度手放した土地を父が買い直して、洋風の、ひときわ目立つ家を建てたんです。父は祖母に親孝行したかったんですね。ずっと借家住まいで、女手ひとつで子供を育てた祖母の肩身が狭かったから、誰にも文句を言われずに住める自分たちの家を建ててあげたかったんだと思います。でも、その頃から父が荒れるようになりました。

子どもたちにもオシャレをさせてくれた
子どもたちにもオシャレをさせてくれた

長い通勤時間、ハードな仕事が父を変えてしまった

 ちょうどその頃、父の勤務先が横浜から、東京・丸の内になってしまい、片道2時間半、往復5時間かけて通勤しなければならなくなったんです。私たち子どもが起きる前に家を出て、私たちが眠ってから帰宅する毎日。睡眠時間は4~5時間だったと思います。母が都内にアパートを、と薦めても、頑として受け入れない。絶対に帰ってくるんです。自分の建てた一軒家に思い入れがあったんでしょうね。

 バブル前夜からバブルにかけては、海外出張もよくあって台湾、中国・北京、モスクワ……ハードだったと思います。中学生の頃から大人になるまで、まともにしゃべった記憶がありません。平日がそんななので、土日は家にいて、黙って貧乏ゆすりをしながらお酒を飲むばかり。それで時々、酔って暴れることもありました。仕事がハードで、心身ともにストレスがたまっていたんでしょう。

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