【オヤジの仕事】さかもと未明さん「娘には父が必要」 “昭和の父”よりイクメンの父

漫画家兼ルポライター、エッセイスト、コメンテーターとして幅広く活躍してきたさかもと未明さん(54)は、2007年、膠原病と診断され、その後、発達障害をもつことも公表。さまざまな困難を抱えているが、同じく困難を抱える人たちにメッセージを送りたいと、表現活動を続けている。両親とは、子どもの頃から漫画家を目指すさかもとさんの夢と、穏やかで手堅い仕事を求める両親の希望がかみ合わないことなど、さまざまな軋轢から葛藤が続いた。今でも両親と疎遠なさかもとさんだが、「それでも父とのいい思い出もたくさんある」と、父への思いを語った。

ルポや時事漫画でも活躍のさかもと未明さん【写真:山口比佐夫】
ルポや時事漫画でも活躍のさかもと未明さん【写真:山口比佐夫】

英語が得意だった父を自慢に思っていた

 漫画家兼ルポライター、エッセイスト、コメンテーターとして幅広く活躍してきたさかもと未明さん(54)は、2007年、膠原病と診断され、その後、発達障害をもつことも公表。さまざまな困難を抱えているが、同じく困難を抱える人たちにメッセージを送りたいと、表現活動を続けている。両親とは、子どもの頃から漫画家を目指すさかもとさんの夢と、穏やかで手堅い仕事を求める両親の希望がかみ合わないことなど、さまざまな軋轢から葛藤が続いた。今でも両親と疎遠なさかもとさんだが、「それでも父とのいい思い出もたくさんある」と、父への思いを語った。

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 うちは父がお酒を飲んで暴れたり、借金を作ったり、いろいろ問題があり、普通の平和な家庭ではありませんでした。母と私、2歳下の妹、8歳下の弟、祖母(父の母)の家族6人暮らし。私はおばあちゃん子で両親とはぶつかってばかりでした、でも両親は大変苦労して私たち姉弟を育ててくれたと思います。

 父は横浜にある貨物船の運輸倉庫会社に勤めるサラリーマンでした。祖父は戦後、米軍のアメリカンハウスで警備の仕事をしていたそうですが、父が中学生のときに亡くなったので、残された母(さかもとさんの祖母)と弟と3人が生きていくために、お寺での珠算教室に始まり、アメリカンハウスで御用聞きのアルバイトなどをして家計を助けていたそうです。それが縁でメリケン波止場などの荷物の積み下ろしのアルバイトをするようになり、そのまま当時景気のよかった船舶の運輸会社に就職したそうです。

 米軍に出入りするなどして生きた英語を身につけたのがよかったようですね。真面目でしたから、働きながら山手英学院に通ったり、英字新聞を取って読みこなしたりして、英語のスキルを磨いたそうです。周囲の人に「かっこつけて」と言われても気にせず、「見返してやるんだ」と思ったみたい。映画館に洋画を観に連れて行ってくれたとき、エンドロールで流れる英語の名前をすらすら読んでくれました。子供心に父をすごいなあと思いました。

かわいがってくれた父・ヨシオさんと
かわいがってくれた父・ヨシオさんと

ロマンチストで優しい面もあった

 私が生まれたとき父は船の上でした。打電を受けて女の子だと聞いたとき、夕日が赤くてきれいだつたから、「明るくてキレイな子になってほしい」と、明美(さかもとさんの本名)と名付けてくれたそうです。

 私は顔も性格もよく父に似ていて、小さい頃はかわいがってもらいました。私は身体が弱く、2歳の頃には鼠径ヘルニアで手術をすることになったんです。すると父が手術予定日に会社を休み、母が私を病院に連れて行かないように、さらって逃亡。母は病院に謝りに行き、とりあえず手術は中止。夜になって私を連れて自宅に戻ってきた父は、「こんな小さな子のお腹を切るなんてかわいそうだ」と涙ぐんでいたとか。そんな優しいところもありました。

 それから、よく適当な作り話をして楽しませてくれました。町の青年団の仲間と「火の用心!」と言いながら夜の見回りをしていたときにムジナに化かされたとか、豪華客船のクイーン・エリザベス号が来たとき、山下公園に連れて行ってくれて見せてくれたんですが、「船長さんと知り合いだから、おまえが大人になったらダンスパーティにつれていってあげる」とか。そんな他愛もない作り話をして、その場だけでも「お父さん、すごい」と言わせたかったんでしょう。調子いいですよね。

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