【その時音楽シーンが動いた #4】33回忌に振り返る美空ひばり 昭和とともに旅立った“歌謡界の女王”

音楽シーンのターニングポイントとなった出来事の日付を「その時」と定義し、そこにいたるまでの状況やその後に与えた影響などを検証するコラム「その時、音楽シーンが動いた」。第4回は昭和を代表するスター・美空ひばりの逝去と、その後に起きた“ひばり現象”を検証する。

美空ひばり「川の流れのように」シングルジャケット
美空ひばり「川の流れのように」シングルジャケット

1989年(平成元年)6月24日午前0時28分“歌謡界の女王”が52歳の若さで逝く

 音楽シーンのターニングポイントとなった出来事の日付を「その時」と定義し、そこにいたるまでの状況やその後に与えた影響などを検証するコラム「その時、音楽シーンが動いた」。第4回は昭和を代表するスター・美空ひばりの逝去と、その後に起きた“ひばり現象”を検証する。(文=濱口英樹、敬称略)

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 人生には「その時、自分は何をしていたか」を明確に思い出せる出来事がいくつかある。筆者にとっては、美空ひばりの訃報に接した時のシチュエーションもその1つ。第1報はたまたま聴いていたラジオの深夜放送で、「ついに、ひばりさんまで…」とぼうぜんとした記憶がある。時は“昭和”から“平成”に改元された5か月後、1989年6月24日の未明であった。

 なぜ「ついに、ひばりさんまで…」と思ったか。それはこの年、昭和天皇の崩御(1月7日)に寄り添うように、各界の大物が相次いで鬼籍に入っていたからである。“漫画の神様”手塚治虫(2月7日没)、“東急・中興の祖”五島昇(3月20日没)、“経営の神様”松下幸之助(4月27日没)…。いずれも昭和史に名を刻む人物であるが、歌謡界の女王も52歳の若さで続いてしまった。自分が生まれ育った昭和という時代が早くも過去のものとなりつつある――そんな感慨を覚えたのだ。

 だが、世間の反応は筆者のそれをはるかに上回るものであった。テレビで最初に報じたのはTBSで午前1時59分。彼女が間質性肺炎による呼吸不全で旅立ってから1時間半後のことである。以後、日本テレビ、NHK、テレビ朝日…と続き、メディアがこぞってひばりをしのぶ、特別な1日が幕を開ける。

 新聞では読売と毎日が朝刊の1面トップで報道。朝日はいわゆる「特オチ」で朝刊には間に合わず、夕刊の1面トップの扱いだった。いくら大スターとはいえ、芸能人の死去が全国紙の1面トップを飾るのは前代未聞。その2年前(87年7月)にやはり52歳で他界した石原裕次郎の訃報は、3紙とも1面には掲載したものの、いずれもトップの扱いではなかった。

 一方、テレビ(NHKと民放在京5局)は早朝からひばりの主演映画や追悼番組を次々と放送。プライムタイム(午後7時~11時)にはNHK、TBS、フジテレビ、テレビ東京の4局が特別番組を編成するなど、6月24日だけで19番組、のべ28時間に及ぶ「ひばり特番」が大量にオンエアされる。

 翌日以降も各局は連日ひばりの歌と映像を流し続けたが、特にNHKは「NHKスペシャル/ひばりの時代・日本人は戦後こう生きた」を6月29日から3夜連続で編成するなど、破格の対応ぶり。彼女の全盛期をリアルタイムで知らない筆者は、その扱われ方を見て、戦後日本の復興と発展を象徴する、昭和の偉大なスターであったことを認識したのである。

 その美空ひばりは1937年(昭和12年)、鮮魚商の長女として横浜市で誕生。本名は加藤和枝で、終戦後すぐに父親が結成した楽団で歌い始める。9歳で初舞台を踏み、49年「河童ブギウギ」で日本コロムビアよりレコードデビュー。「悲しき口笛」(49年)を皮切りに主演映画とその主題歌が次々と当たり、敗戦に打ちひしがれた庶民の圧倒的な支持を受ける。

 その後もヒットを連発し、65年に「柔」で日本レコード大賞を受賞。NHK紅白歌合戦には通算18回出演し、そのうち11回で大トリを務めるなど、自他ともに認める“歌謡界の女王”として君臨する。生涯で出演した映画は160本以上、レコーディングした楽曲は約1500曲。音楽ソフトの累計出荷枚数は2019年時点で1億1700万枚を超える(日本コロムビア調べ)。

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