【プロレスこの一年 ♯5】昭和のプロレスが輝いていた1983年 猪木とホーガン、長州と藤波、カブキブームにテリーの引退

飛ぶように売れたIWGPのロゴが入ったステッカー【写真提供:新井宏/Hiroshi Arai】
飛ぶように売れたIWGPのロゴが入ったステッカー【写真提供:新井宏/Hiroshi Arai】

IWGP第1回の優勝戦は猪木とハルク・ホーガンの一騎打ち

 決勝戦は6月2日の蔵前。前日の名古屋でアンドレ・ザ・ジャイアントとキラー・カーンが両者リングアウトで引き分けたため、アンドレの決勝進出が消滅、第1回の優勝戦は猪木VSハルク・ホーガンというカードになった。ホーガンはすでに外国人エース格に成長していたものの、当時はまだまだ猪木の格下。このとき、誰もが猪木の優勝を信じて疑わなかった。まずは猪木が第1回の覇者となることで、新日本、IWGPはさらなる拡大をみせていくという青写真をファンも共有していたのである。

 ところが、この時の猪木は心身ともにボロボロの状態だった。場外でのアックスボンバーを背後から食らうと額から鉄柱に激突、猪木の動きが明らかに鈍ってしまった。リングに戻ったホーガンはエプロンに立った猪木にもう一発アックスボンバー。場外転落の猪木はセコンドによってリングに上げられたものの、舌を出して失神。ホーガンが勝者としてコールされたが、不安そうな表情がかえって事の重大さを物語っていた。

 猪木失神の衝撃はプロレス界のみならず、一般社会にも波及するスキャンダラスなニュースとなった。以降、猪木は試合を欠場、2か月後の8月4日にはタイガーマスクが寺西を退けNWA世界ジュニアヘビー級王座を防衛するも、1週間後に突如引退を表明、翌日には正体の佐山聡がマスクとベルト(NWA世界ジュニア&WWFジュニア)を返上した。さらに同月には新日本でクーデターが勃発。計画は失敗に終わるものの、社長の猪木、副社長の坂口征二が役職から降ろされる事態となった(11月に両者復職も新間氏は退社)。猪木は8月28日の田園コロシアムでリングにカムバック、木村を卍固めで下すと「俺の首を刈っ斬ってみろ!」とアピールした。内紛への怒りも込められていたのは明白だった。

 タイガーの電撃引退により、新日本は新マスクマン、ザ・コブラをデビューさせる。コブラは、新日本正規軍と長州率いる維新軍団の4対4綱引きマッチがおこなわれた11月3日の蔵前で凱旋帰国、ザ・バンピートとして来日したデイビーボーイ・スミスを破るも、タイガーと比較されてしまう不運で厳しいスタートをしいられた。社長復帰の猪木は「第4回MSGタッグリーグ戦」を完走し、ホーガンとのタッグでディック・マードック&アドリアン・アドニスを破り2連覇を達成した。なんとか帳尻を合わせた猪木だが、新日本ブームはIWGP決勝戦での敗北により、その後の離合集散のきっかけも作るという皮肉な結果も含んでいたのである。

次のページへ (3/4) テリー・ファンクの引退ツアー
1 2 3 4
あなたの“気になる”を教えてください