【プロレスこの一年 ♯5】昭和のプロレスが輝いていた1983年 猪木とホーガン、長州と藤波、カブキブームにテリーの引退

新型コロナウイルスの影響で興行が停止していたプロレス界だが、盟主・新日本プロレスは6月15日に無観客で試合を再開、7月11日&12日には約4か月ぶりとなる観客を入れた大会を開催した。復活の舞台は西の大会場、大阪城ホール。感染防止策として通常の約3分の1という客席制限だったものの、数年前まではほとんどのプロレス団体が手を出せない期間が続いたビッグアリーナである。大阪城ホールでの再開は、昨今の勢いを思い出させる効果も内包されていたと言っていいだろう。聖地・後楽園ホールでの有観客大会も再スタートした。

第4回MSGタッグリーグ戦を制した猪木とホーガン【写真:平工 幸雄】
第4回MSGタッグリーグ戦を制した猪木とホーガン【写真:平工 幸雄】

1983年 1月11日、ザ・グレート・カブキが全日本に初登場

 新型コロナウイルスの影響で興行が停止していたプロレス界だが、盟主・新日本プロレスは6月15日に無観客で試合を再開、7月11日&12日には約4か月ぶりとなる観客を入れた大会を開催した。復活の舞台は西の大会場、大阪城ホール。感染防止策として通常の約3分の1という客席制限だったものの、数年前まではほとんどのプロレス団体が手を出せない期間が続いたビッグアリーナである。大阪城ホールでの再開は、昨今の勢いを思い出させる効果も内包されていたと言っていいだろう。聖地・後楽園ホールでの有観客大会も再スタートした。

 新日本(をはじめ全団体)は社会情勢を鑑み対策を講じながら大会をおこなっていくことになるが、それにしてもここ数年の新日本の人気はすさまじい。コロナ渦がなければどこまで上昇しただろう? 今年下半期は仕切り直しの期間となるのだろうが、では歴史上、新日本がもっとも人気だったのはどの年なのか。新日本ブームはそのまま日本におけるプロレスのブームと直結する。そう考えると、現時点においては、おそらく昭和58年、1983年がピークだったのではないかと推測できる。

 1月2日、新日本(夜)と全日本(昼)の2団体が後楽園での同日興行でスタートした83年。2月7日には新日本のアントニオ猪木が国際軍団(ラッシャー木村&アニマル浜口&寺西勇)と2度目となる1対3のハンディキャップマッチを決行(3人目の浜口に猪木が反則負け)。11日には全日本にザ・グレート・カブキが初登場、東洋の神秘を逆輸入し、カブキブームが巻き起こった。

 長州力の噛ませ犬発言からスタートした藤波辰巳(現・辰爾)とのライバル抗争は4月3日の蔵前でクライマックスを迎えた。年間ベストバウトとなる名勝負の末、長州がリキラリアットで藤波から劇的勝利、インターナショナルヘビー級王座を宿敵から奪取した。試合が決まった直後はマサ斎藤と抱き合い、「俺の人生にも一度くらい幸せなときがあってもいいだろう」という名言も残した。4月には英国でクイック・キック・リーを名乗っていた前田日明が凱旋、21日の蔵前でポール・オンドーフを一蹴し帰国第一戦をインパクトある勝利で飾ってみせた。

 この年は、なんといってもIWGP(インターナショナルグランプリ)が大きな話題となった。ジャイアント馬場の全日本とアメリカNWAへの対抗心から芽生えたのが、「世界統一」という猪木の野望だった。新間寿営業本部長との二人三脚で、世界から強豪を一斉招聘する夢が実現したのだ。5月6日、福岡で「IWGP決勝リーグ」が開幕し、4週間で28興行を全国各地で開催、つまり、毎日試合をおこなっていたのだからすさまじい。しかも全28戦中26戦で超満員を記録。Tシャツ、ステッカーなどIWGPのロゴが入ったグッズも飛ぶように売れた。

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