【プロレスこの一年 ♯4】「噂のチャンネル」で大人気だったデストロイヤーがマスカラスと対決した46年前の7月25日

ミル・マスカラス【Photographer 平工 幸雄】
ミル・マスカラス【Photographer 平工 幸雄】

NWA加盟の全日本にブリスコ、レイス、ドリーと大物外国人が来日

 一方の全日本では、前年に馬場がNWAに加盟したことで大物外国人レスラーの多数招聘が可能になった。1月にはNWA世界ヘビー級王座の現王者(ジャック・ブリスコ)、前王者(ハーリー・レイス)、元王者(ドリー・ファンクJr)を一度に来日させる豪華シリーズを敢行した。王者ブリスコは馬場からベルトを守ったのを筆頭に、レイス、ドリー、デストロイヤー、ジャンボ鶴田に8日間で5度の防衛に成功。NWA王者の威厳を満天下に見せつけたのである。

 大物外国人のブッキングで後塵を拝していた新日本もNWAへの加盟を申請するが、前年に引きつづきこの年も否決されてしまった。アメリカにおける馬場と猪木の知名度に大きな差があったからだ。しかし猪木はこれを逆手に取り大物日本人との対戦をマッチメーク、外国人では“狂虎”タイガー・ジェット・シンをはじめ独自のルートから日本向きに売り出す方針を見いだした。シンと猪木の抗争が白熱し、シンが火炎攻撃、猪木が報復の腕折りを決行したのもこの年だった。また、“大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントが2月に新日本初登場。初参戦のシリーズで猪木に勝利すると、猪木VS小林のセミファイナルで坂口征二と一騎打ち、両者リングアウトで引き分けた。

 また、坂口は4月26日の広島で猪木と30分時間切れ引き分け。団体内対決ではあるものの、「第1回ワールドリーグ戦」公式戦としておこなわれたこの試合も、対大物日本人路線の流れとして考えられるだろう(ワールドリーグ戦は猪木が優勝、決勝戦をWWWF=現WWEのビンス・マクマホン・シニアが観戦、ビンスはこれが初来日だった)。また、カール・ゴッチと猪木の「実力世界一決定戦」も新日本の独自路線を強調した試合と言っていい(2試合おこなわれ1勝1敗)。この頃、猪木は馬場に対し再三に渡り挑発をおこなった。どっちが強いか決めようじゃないか、ということだ。

 12月2日、馬場は鹿児島にてブリスコを破り、日本人として初めてNWA世界ヘビー級王座を獲得した。フィニッシュはネックブリーカー・ドロップ。これが猪木に対する無言の返答でもあったのだろう。猪木が入ってこれないNWAという領域で頂点に立ったのだ。

 馬場は5日の日大講堂でブリスコを返り討ちにして防衛を果たすも、9日の豊橋で奪回される。一週間天下で終わったものの、NWAという巨大なブランドは絶大。ブリスコは12日に鶴田を破り、至宝をアメリカに持ち帰っている。

 なお、この年には全日本で大仁田厚(4月14日)、新日本で吉田光雄(のちの長州力=8月8日)がデビュー。若手によるリーグ戦「第1回カール・ゴッチ杯」で藤波辰巳(現・辰爾)が小沢正志(のちのキラー・カーン)を破り優勝、海外武者修行の権利を手に入れた。

 また、東京スポーツ新聞社制定の「プロレス大賞」がこの年にスタート、第1回受賞者として猪木が「MVP」に選ばれ、猪木VS小林(3・19蔵前)が「ベストバウト」、「新人賞」には藤波が選出された。やはり、年間を通してのインパクトは馬場よりも猪木となるのだろう。馬場は「最高殊勲選手賞」を受賞し、NWA王座奪取の面目を保った形だ。ベストバウトの猪木VS小林は12月12日、ところも同じ蔵前で再戦がおこなわれ、猪木が卍固めでNWF世界ヘビー級王座を防衛。この試合後も猪木は馬場を挑発するような発言をし、両者の間接対決はこのあとも続いていく。猪木に連敗の小林は、翌76年1月から新日本のシリーズにフリー参戦。猪木、坂口に次ぐ新日本トップの一角として戦っていくこととなる。

次のページへ (3/3) 【写真】ミル・マスカラスのフライング・クロスチョップ
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