“通販王”保阪尚希、死の危機乗り越え…コロナ禍でも超多忙「埋まっていない日ない」

37歳で所属事務所を退社した保阪尚希【写真:荒川祐史】
37歳で所属事務所を退社した保阪尚希【写真:荒川祐史】

32歳で内臓破裂、37歳で人気俳優の座を捨て商品開発

 保阪は高校在学中から芸能活動を始め、俳優として地位を築いてきた。一方で予防医学、健康への関心を持ち、19歳のときには、米国でサプリメントに出会っていた。

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「かつては大きな仕事を終えると、私生活でワイドショー、週刊誌、スポーツ紙などに追われないように、よく海外に行っていました。19歳当時はニューヨークのセレブ宅に居候する期間がありました。そして、彼が朝から大量のカプセルを口に入れていたのを目にし、『どこか悪いのか』と聞いたら、『これはサプリだ』と。つまり、それらでカルシウムやタンパク質、DHAやらを摂っていたのです。彼は『日本人はなぜ、小さい魚を食べるのか。カルシウムを摂るというが、それで本当に足りるのか』とも言うので、僕は感化されました。日本ではまだサプリが一般的ではなく、半年に1度、ニューヨークに行ってはサプリを買い込み、スーツケースいっぱいに詰め込むようになりました」

 健康を気にする保阪の頭には、「死んだら終わり」の思いがあった。7歳の頃、両親が自殺。その後も周りで亡くなる人が少なくなかったという。だからこそ、酒、タバコを吸わず、自己投資をしていた。それでも、32歳のときには内臓破裂で危篤状態に陥った。

「たまたまハワイで過ごすことを避けた2000年元日の朝、体が痛くて起きられませんでした。当時は妻がいて、『初詣、行けないから子どもたちを連れて行ってあげて』と言って、家族が戻って来た頃には、痛みが尋常じゃない程になっていました。そして、入院して気付いたら2日後、集中治療室にいました。内臓をいったん取り出すほどの手術で、リハビリには1年、かかりました。内臓が癒着や捻転をしないように毎日、世田谷公園を2時間、歩きました」

 その後も忙しい日々は続いたが、生活を見直すために37歳で芸能活動を一時休止した。所属事務所を退社し、1年後には健康の大切さを世に伝えていくことを決意。40歳で通販会社を立ち上げた。

「僕からすれば、芸能活動はCMを取る仕事でしたが、新たな道を歩むにあたり、全てのスポンサーとの契約を解消しました。ただ、再び人前に立つにも映像は刹那的で、『ながら』で見る人も多い。言い換えれば、歩行者天国の状態です。そこで、人々を立ち止まらせるのは、物(商品)と情報が必要と考えました」

 そして、商品開発に力を注ぐようになり、最初にたどり着いたのが、「小麦アレルギーにも対応できるパン」だったという。

「長野県に玄米を駆使し、小麦アレルギーが発症しづらい粉を持っている会社があると聞き、交渉に行きました。商品ができて、最初はショップチャンネルで冠番組をやるようになり、料理器具、健康グッズへとつながっていきました。ブームになっているファスティングに関連する商品もいち早く提供しましたし、サプリメントも開発できました」

 言葉通り、自身が監修するブランド「保阪流」で、食や健康にまつわるさまざまな商品のプロデュース。ヒット商品が続々と生まれ、通販番組で「保阪流」の商品を説明すれば、1日に億単位で売り上げが出るようにもなった。いつしか「通販王」と呼ばれ、俳優としてのオファーはあっても、受けられない状態が続いている。

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