94歳の石井ふく子さんを動かすパワーの源「負けてたまるか」 忘れられぬ戦争中の出来事

16歳当時の石井ふく子さん 【写真:石井ふく子さん提供】
16歳当時の石井ふく子さん 【写真:石井ふく子さん提供】

命を失いかけた10代の戦争体験、本来なら自分が犠牲になっていた

 食生活はどうか。気遣っていると思う人もいるだろうが、驚く内容。

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「ナスは苦手です。どうしてもねずみに見えてしまうので。あとトマトがだめで、ゴボウもあまり好きじゃないです。本当にしょうもない人なんです。好き嫌いが多くて。お昼も食べません。仕事があるので、食べると眠くなるのが嫌なんです。魚は、タイは食べられますが、赤身のマグロは食べないです。強烈な色の物は食べたいと思わないんです。赤とかグリーンとか。野菜に多いです。でもホウレンソウや白菜は食べられます(笑)」

「生きる」をテーマにした取材。10代の女学校時代生死を分けた出来事を話してくれた。

「戦争中、東京・錦糸町にあったある工場に勤労動員に行かされていました。そこには女学校の何人か一緒にいました。空襲警報が鳴ると外に出て、先頭に副班長、後方に班長が並んで防空壕(ごう)に避難するんです。私は副班長をしていましたが、そのとき、たまたま遅れてしまい、班長が先頭に行き、私は『ごめんなさい』と言って後ろにつきました。そこに機銃掃射がきたんです。前にいた班長と3人が撃たれて亡くなりました。これは、私の中で一生、忘れられないことです。一番、つらかったのは、先生と一緒に亡くなった人たちのご家族に事情を話しに行かないといけなかったこと。ずっと頭を下げっぱなしで何も言えなかったことを今でも覚えています。自分は助かったけど、私の代わりに人の命が亡くなったと今でも思っています」

 その思いは今の生き方にどんな影響を与えているのか。

「強烈な思いをずっと引っ張っていました。負けてたまるか、人の命を簡単に奪ってしまう戦争に、負けてたまるかと思って生きてきました。弱気になったらどうにもならないじゃないですか。コロナ禍の時代も負けてたまるかと思いながら過ごしています。ますます『焦るな、怒るな、あきらめるな』と思いながら暮らしています」

 戦争の悲しい体験は、知人や友人と別れる時のあいさつにも影響を与えた。

「友人と会って別れる際には、『またね』と言って別れます。『またね』はまた会えるという意味ですから。戦争中は会えなくなるかもしれない日々でした。だから『さようなら』とは言ったことはありません」

 戦後、疎開先の山形から上京した際は、家がなく、日々、泊まる場所を探す生活だった。救ったのは父の友人の俳優・長谷川一夫さん。長谷川さんの家に家族3人で住まわせてもらった。その後、日本電建を経てTBSに入社したのは61年。定年前に専属契約の形になったが今年で、TBSで仕事をして60年になる。石井さんは「ずっと皆さんに支えられて今までやってまいりました」と謙虚に語る。だが今があるのは「負けてたまるか」「焦るな、怒るな、あきらめるな」と自分に言い聞かせ、絶えず自分に厳しく生きてきたからだ。

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