【プロレスこの一年 ♯31】控え室の些細な誤解から生まれたプロレスと空手の抗争、三沢が5冠達成 92年のプロレス

今から29年前の1992年1月下旬、異様な興奮のなか、プロレス界で異例の抗争が勃発した。事の発端は前年91年の12月8日にさかのぼる。控え室での些細な誤解から新日本プロレスと空手・誠心会館の間に亀裂が生じたのだ。

1・4のリングに上がった誠心会館勢 新日本に挑戦状を叩きつけた(92年1月)【写真:平工 幸雄】
1・4のリングに上がった誠心会館勢 新日本に挑戦状を叩きつけた(92年1月)【写真:平工 幸雄】

1・30大田区大会のメイン終了後に番外戦扱いで組まれた小林と齋藤の一騎打ち

 今から29年前の1992年1月下旬、異様な興奮のなか、プロレス界で異例の抗争が勃発した。ことの発端は前年91年の12月8日にさかのぼる。控え室での些細な誤解から新日本プロレスと空手・誠心会館の間に亀裂が生じたのだ。

 新日本にレギュラー参戦していた誠心会館館長・青柳政司と新日本の小林邦昭がタッグを組んだ会場控え室において、小林が青柳の付き人に「ドアの閉め方が悪い」と注意。小林は付き人の反応を口ごたえしたと判断し、制裁を加えてしまった。誠心会館の齋藤彰俊は“素人”を殴った小林に激怒。館長の青柳に抗議するも、「ここは我慢してくれ」との返答に齋藤をはじめとする門下生は納得がいかず、12月16日の大阪で会場入りする小林を襲撃した。

 さらに誠心会館勢は92年1月4日の東京ドームで挑戦状を新日本に叩きつける。新日本は1・30大田区でのメイン終了後に小林と齋藤の一騎打ちを組むことで彼らの要求をのんだ。が、あくまでも番外戦の扱いで、見たくない観客は帰れるような計らいをみせたのである。

 とはいえ、メイン後に帰るファンは皆無で、場内は事実上のメインで異様な雰囲気に包まれていた。試合は喧嘩ファイトとなり、小林が大流血。結果はレフェリーストップでプロレスラー小林が敗れてしまう。セコンド同士による大乱闘も発生し、遺恨の残る結末となってしまったのである。

 その後、新日本は小林のほか、小原道由、越中詩郎を差し向け、誠心会館との本格的抗争に発展。誠心会館からも田尻茂一、来原圭吾がプロレスのリングに登場した。館長・青柳みずからも対新日本に加わり、全面戦争の様相を呈していく。

 完全決着の2連戦、4・30両国では小林が齋藤を破り誠心会館の看板を奪取。翌5・1千葉でも越中が青柳をKOし、新日本が連勝。誠心会館の看板奪回を許さなかった。が、現場を仕切っていた長州力が誠心会館勢を認め看板を返却、一応の決着をみた。

 ところが、誠心会館側からの再戦メッセージを受けた小林が誠心会館6・9名古屋に新日本の許可を取らず無断で参戦。両者レフェリーストップで引き分けると、小林があらためて誠心会館の看板を返却した。6月20日には、同行していた越中が新日本の選手会長を辞任。小林も選手会脱退を宣言し、両者は無期限出場停止処分に。さらには木村健悟も越中、小林と行動を共にした。そこには青柳、齋藤まで加わり8月7日、反選手会同盟が結成されることとなる。この新ユニットは新日本本隊だけではなく、6月に活動休止となったSWSから派生した天龍源一郎率いるWARとの抗争をスタート。反選手会同盟は新日本の中心を成すような勢力を手に入れたのである。

 誠心会館勢がリングジャックした新日本・東京ドームは、この年から1月4日開催が恒例となる。新日本では3月1日に創立20周年記念の横浜アリーナ大会を開催し、4・30両国では獣神サンダー・ライガーがエル・サムライを破り「トップ・オブ・ザ・スーパージュニアIII」優勝。前年スタートの「G1クライマックス」はNWA世界ヘビー級王座決定トーナメントも兼ねており、リック・ルードを破った蝶野正洋が連覇を果たすとともに、第75代NWA世界ヘビー級王者の座を手に入れた。

 新日本に乗り込むこととなるWARは、6月19日のSWS最終興行を経て7・14&15後楽園2連戦で旗揚げ。ケンドー・ナガサキ派のNOWは8・9後楽園でプレ旗揚げ戦を行い、10・26後楽園にて旗揚げ戦を開催した。が、前日にはNOWから離れたジョージ高野&高野俊二がPWC設立を発表するハプニングが発生、前途多難な船出となった。

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