「今の医学では治らない」16歳でバイク事故 動かない体、暗黒時代も経験…絶望から這い上がった画家の人生

パソコンが大好きで、エンジニアになることを夢見ていた少年は、16歳のとき、人生が一変した。交通事故で首の骨を折り、手足が動かせなくなった。絶望に襲われ、自暴自棄になりかけた。しかし、その後、口で絵を描くことに希望を見出し、画家としての道を歩み始めた。あの日から40年。「誰かの心に小さな幸せや温かさを届けられることが、一番のやりがい」という新潟県の飯原孝さんが激動の半生を語った。

飯原孝さん【写真:本人提供】
飯原孝さん【写真:本人提供】

2人乗りで海に向かう途中、友人絶叫「左に寄れ!」

 パソコンが大好きで、エンジニアになることを夢見ていた少年は、16歳のとき、人生が一変した。交通事故で首の骨を折り、手足が動かせなくなった。絶望に襲われ、自暴自棄になりかけた。しかし、その後、口で絵を描くことに希望を見出し、画家としての道を歩み始めた。あの日から40年。「誰かの心に小さな幸せや温かさを届けられることが、一番のやりがい」という新潟県の飯原孝さんが激動の半生を語った。(取材・文=水沼一夫)

 運命が変わったのは、高校2年の夏だった。一学期の終業式が終わると、飯原さんはバイクの後ろに友人を乗せて海へ繰り出した。

 事故の瞬間は、覚えていない。

「PTSDみたいで記憶がないんです」

 だが、その数秒前のことははっきりと記憶している。

「バイクで加速するときに、ヘルメットが前方に下がってしまったんです。それで前が見えなくなって、対向車線に出て行った。正面衝突で……」

 友人が「左に寄れ!」と叫んだのが聞こえた。16歳の誕生日を迎え、中型免許を取得したばかりだった。

 子どもの頃は、自転車でどこまでも行く活発な少年だった。仲間と野球をし、中学校ではジョン・マッケンローに憧れ、ソフトテニス部で汗を流した。パソコンが好きで工業系の高校に進学。本を見ながらパソコンでゲームを作るほど熱中した。さあこれから、というときの痛ましい事故だった。

「気がついたら病院のベッドの上でした」

 異変にはすぐに気づいた。

「もう、訳が分からなくて。とにかく気管切開したので声が出なかったんですよ。あとたんが上ってきたので、それがつらかったです」

 事故から少なくとも2日が経過していた。体は別人のようだった。首の骨が折れ、人工呼吸器をつながれ、身動きが取れない。何より、手足の感覚がなかった。

「孝、孝!」

 隣には目覚めた息子を見て、名前を呼ぶ母の姿があった。

 たんの吸引は30分に1回、ベッドを横回転しながら行われた。医師は診断名をなかなか告げなかった。

「先生が来て、『このままの状態になるかもしれないけど……』ってやんわり言われてたんですけど、私はいつか治ると思っていました」

 ところが、1か月、2か月が過ぎても変化がない。看護師に聞いても、はっきりしたことは答えなかった。

学生時代は運動が好きだった【写真:本人提供】
学生時代は運動が好きだった【写真:本人提供】

「今の医学では治らない」診察室での告知、16歳で悲観した将来

 ある日、医師に診察室に呼ばれた。

「今、困っていることはありますか?」

 そう問われた後に、障がいについての詳しい説明があった。

「首の神経を損傷したので、今の医学では治らない」

 診断名は頸椎損傷による上下肢不自由。

 不思議なことに大きなショックはなかった。治療が困難なことをうすうす感じ取っていたからだ。

「荒れに荒れまくっていました」

 体が思うように動かないストレスを母や看護師にぶつけていた。まだ16歳。やりたいことは数えきれないほどあった。将来について考えれば考えるほど悲観し、いら立ちが募る日々を送っていた。

「手足を縛られたのと同じですからね。何もできない状態で5分もいたら、本当に叫びたくなると思いますよ」

 いくら治療しても、症状が前進することはなかった。

車いすを利用している【写真:本人提供】
車いすを利用している【写真:本人提供】

最初はカルチャーショックを受けた養護学校での生活

 転機となったのは、リハビリの先生の言葉だった。

「できることを探してやりなさい」

 同じ障がいを持っていても、パソコンを動かしたり、口で絵を描いている人たちがいた。

「当時はそんな人いっぱいいました。病院にパソコン室もあった。先生に、『受容しなさい』と言われて、障がいを受容できない部分もありましたけど、『こういうことやっている人いるよ』って紹介してもらったりして、少しずつ始めるようになりました」

 半年後に退院。施設に入ることも考えたが、養護学校の高等部に編入した。

 生徒は、指定難病の筋ジストロフィーと闘病する若者が中心だった。50人ほどの同期は、全員が車いすで、人工呼吸をつけて授業を受け、言葉を発せない人もいた。

「最初はカルチャーショックも受けました。私より重症な方もいた。筋力が衰えてしまう病気なので、20歳くらいで亡くなってしまう方もいたんです」

 学校生活に慣れると、美術の授業では油絵に挑戦し、絵画への関心を深めていった。飯原さんが絵を描き始めた原点は、故郷の白根(しろね)市(現新潟市)で毎年行われている「白根大凧合戦」。信濃川の支流・中ノ口川を舞台に、両岸から揚げられた大たこを綱が切れるまで引き合う大たこ合戦は、300年の伝統を誇る。飯原さんは、幼少の頃から自作のたこを作り楽しんでいた。

「小さいノート切って絵を描いてたこを揚げていたんです。そこが始まりですね。たこ合戦が大きい」

口と足で描く芸術家協会で活動している【写真:口と足で描く芸術家協会】
口と足で描く芸術家協会で活動している【写真:口と足で描く芸術家協会】

20代は暗黒時代…「失われた10年」からの転機

 卒業後は大学進学も選択肢にあったが、悩んだ末、地元に戻ることを決めた。

「まだ20ぐらいだったので、どうしても友達とかに会いたくて、戻ってきました」

 だが、そこからは「失われた10年」と振り返る時期を過ごす。

「20歳から30歳くらいまで何もやる気がなく、テレビばかり見ていました。これからどうしよう? って。暗黒時代でしたね。何もできないから、どこにも行けないし、人にも会いたくない。自分から外に出て行って見られるのも嫌だし、恥ずかしいし」

 周りの20代を見れば、忙しくも希望にあふれていた。しかし、飯原さんは、その大半を引きこもり状態で過ごした。絵は描き続けていたものの、再び訪れた試練だった。

 暗く長いトンネルを抜け出せたのは、インターネットの力だった。

「パソコンが好きだったからホームページを作って自分の絵を載せたんです。そしたらメールが来て」

 障がいを持った画家が所属する口と足で描く芸術家協会の誘いだった。飯原さんは、プロの画家として活動することを決意。次第に、外にも出かけていくようになった。

 毎年、4~5本の作品を仕上げる。好きな題材は新潟の名所や風景だ。

「みんなにお世話になっているので、地元のこと描きたくて。新潟はいいところがいっぱいある。新潟の人はPRがへたなので、自分がいいところを描いてPRできるように貢献できたら」と笑った。

 犬や猫を描いた作品は、「かわいい」「癒やされる」と評判を呼んでいる。こうした声を直接かけてもらえるのは、画家として喜びを感じる瞬間だ。

「中でも印象に残っているのは、2018年の絵画展での出来事です。私のファンだという小学生と幼稚園児の姉妹が、手紙と、自分たちのお小遣いで買った一輪の花をプレゼントしてくれました。今まで絵を描いてきて、あれほどうれしかったことはありませんでした。お礼にその場で姉妹の似顔絵を描いて贈り、後日、飼い犬も一緒に描いた油絵をプレゼントしました。絵を通じて人と心がつながり、喜びを分かち合えたことは、画家として本当に幸せな思い出です」

『鶴ヶ城の初春』【写真:口と足で描く芸術家協会】
『鶴ヶ城の初春』【写真:口と足で描く芸術家協会】

「見た人が笑顔になれるような作品を描いていきたい」

 飯原さんは、21日に開幕した絵画展『口と足で描いた絵~HEARTありがとう~』(東京交通会館、27日まで)に福島の会津若松城を描いた『鶴ヶ城の初春』を出展。春に旅行に行ったときの作品で、「小学校の修学旅行で訪れた場所でした。大きな石垣があったな、お城が見事だったなと昔のことを思い出して描きました。また、東日本大震災の早い復興を願う気持ちも込めました」。22日には会場での実演も予定している。

「絵を描くことで自立した生活を送りながら、自分らしく社会に関わり続けられることにも大きな意味を感じています。誰かの心に小さな幸せや温かさを届けられることが、画家としての一番のやりがいです」

 16歳の夏、突然奪われた「当たり前」の日常。それでも、飯原さんは「できること」を探し続けてきた。「これからも、見た人が笑顔になれるような作品を描いていきたい」。その願いを乗せた筆は、今日も新たな一枚を描いている。

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