「100万が150万、200万になっていった」綾小路きみまろ、遅咲きブレーク後の“驚愕のギャラ事情”を赤裸々告白
漫談家の綾小路きみまろ(75)が6日、関西テレビ『おかべろ』(土曜午後2時28分)に出演。これまでの自身の軌跡を振り返るとともに、ギャラ事情を明かした。

関西テレビ『おかべろ』
漫談家の綾小路きみまろ(75)が6日、関西テレビ『おかべろ』(土曜午後2時28分)に出演。これまでの自身の軌跡を振り返るとともに、ギャラ事情を明かした。
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1970年に20歳で鹿児島から上京し、キャバレーでボーイを務めたという。当時のサラリーマンの平均月収が6万円の時代に、ボーイの月給は1万5000円~2万円だったとした。午後8時と10時に有名ゲストを招いてショーが行われており、専属の司会者が進行していたのを見たという。当時のキャバレーには専属の司会者、歌手、バンド、それぞれポジションがあったという。きみまろは「あれぐらいの司会は私でもできるな」と思い、部長に直談判して挑戦。結果、「私の方がうまかった」とした。
そこから「面白い司会者がいる」という話を聞きつけた別の店に引き抜かれ、月収は5~6万円にアップ。引き抜かれて店を転々とし、少しずつ収入もアップしていったという。そのうち、春日八郎さん、村田英雄さんら歌手に専属司会がいることを知り、そこが夢になったという。1973年に23歳のときにサンミュージックの関係者から誘われ、桜田淳子の専属司会に就任して全国を回った。
その後、同じ事務所の都はるみの前座と専属司会を2年半務めたという。衣装替えの際のつなぎをするが、都のイメージもあって“暴走”はしておらず、都ファンからは「引っ込め!」などの罵声も浴びたという。ちなみに、当時、サンミュージックだった松田聖子からは「お声はかかりませんでした」と振り返って笑わせた。
1980年には専属司会だった故・宮尾すすむさんが売れっ子になって外れた同郷・鹿児島出身の大スター、森進一から声がかかったという。年間100本のステージに同行したと打ち明けた。専属司会のギャラは1日5万円で、30~35万円が大体の月収だったという。次についた伍代夏子の専属時代に前座で漫談の時間を20分もらい、7年間ぐらい続けてネタを勉強したという。興味深い話の連発に、ナインティナイン・岡村隆史は「きみまろさんが亡くなられたら、多分、ネットフリックス(のドラマ)になりますよ」と予言。大きな笑いが起こった。
1995年、45歳で漫談家に完全転身した。伍代の専属時代の漫談ネタを大量購入したカセットテープのA面、B面に各25分で録音・編集。それを『きみまろスーパーライブ』として1本2000円で商品化。最初はバスの乗務員に連絡先も書いて無料で配布したという。そこから口コミで「1日3本とか5本とか10本とかどんどん増えて行って、1日最高400本」と火がつき、身内を動員した注文処理も大変だったという。評判をかぎつけたテイチクレコードがCD化による全国発売の話をもちかけて再録。2002年にリリースすると、翌03年にブレークした。売り上げは50億円を超え、テレビ各局で密着取材されて当時53歳で全国区に。CDは計186万枚、DVDなどと合わせると、総計525万枚に達したという。
そして、興行主が月10本ほどライブを始めたとした。1日1回公演限定でゲストなしの一人しゃべり。収容1000人、2000人の全国の会場を回ったという。ライブのギャラについて、「普通(1本)3万~5万(円)もらったら大成功。ところが、ちょっと名前が出たら10万(円)ぐらいになって。その値段設定をどうしたらいいかって言うんで、私が『100万(円)』って言ったんですよ。100万でも呼んでくれたんです。1人5000円取って、2000人入ったらわかるじゃないですか。そこから考えたらまだ安いんですよ。それで(徐々に)100万が150万になって、200万になっていったんですよ」と回想。NON STYLE・石田明は「夢あるわ~」と叫んで笑わせた。
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