「本当はプロになる気はなかった」男色ディーノ25年目の真実、搾取されたAV会社のAD時代~“DDTのアイコン”への道

そもそもプロでやっていこうとは思っていなかった。しかし、人に恵まれ、環境に恵まれ、ときには大先輩にしっかりと怒られながらも、四半世紀近くにわたって自分のスタイルを作り上げてきた。そして今でも、入場時には男性客を襲い、試合中にはタイツも脱ぐ。男色ディーノ……“DDTのアイコン”という言葉がよく似合うプロレスラーへのインタビュー前編は、これまでのキャリアを振り返りつつ、今のDDTについて聴いた。

これまでのキャリアを振り返った男色ディーノ【写真:橋場了吾】
これまでのキャリアを振り返った男色ディーノ【写真:橋場了吾】

山本小鉄さんという権威のある方に怒られたことは良かった

 そもそもプロでやっていこうとは思っていなかった。しかし、人に恵まれ、環境に恵まれ、ときには大先輩にしっかりと怒られながらも、四半世紀近くにわたって自分のスタイルを作り上げてきた。そして今でも、入場時には男性客を襲い、試合中にはタイツも脱ぐ。男色ディーノ……“DDTのアイコン”という言葉がよく似合うプロレスラーへのインタビュー前編は、これまでのキャリアを振り返りつつ、今のDDTについて聴いた。(取材・文=橋場了吾)

 男色ディーノは、学生プロレスから誕生したレスラーだ。社会人になってからもリングには上がっていたが、その時点でプロレスラーとして食べていく想定はしていなかった。

「大学を出てすぐにデビューしている(2002年4月)ので、今25年目に入ったところですね。本当、全然プロになる気はなかったんですよ、最初。本当に趣味じゃないですけど。そのレベルでやっていければいいかなあくらいで。でもDDTに出るようになってから(2003年夏)ですかね、プロとしてしっかりしないと思ったのは。

 プロデビューしたものの、1か月に1回あるかないかの試合数でしたから。それでDDTに上がるようになって、急に週1回、最初はビアガーデンプロレスだったので週4~5回に変わったわけですよ。当時、ライターとして上京してきたのに給料が支払われず、アダルトビデオの会社に拾われてADをやっていて約束した昇給がされず……これは搾取されているだけだなと思って、ちょうど仕事を辞めたこともあって、偶然が重なった感じでしたね」

 男色ディーノの戦い方は、学生時代と大きく変わっていない。

「DDTに出るまでは結構しっかりやっていた時代もあるんですよ。でもDDTに出る前に透明人間戦があったんですよ。この試合がある程度評価されてしまって、そこから髙木三四郎(サイバーファイト副社長、DDT創設者)に引っかかって。たまたま大家健がゲイキャラをやらされている時期だったので、私が噛みついて……そのときに、私は逆に解き放たれて、学生時代の“貯金”を初めて使えたんじゃないかなと思いますね」

 2009年12月。ディーノは新日本プロレス主催の『SUPER J-CUP』に出場。当時、鬼軍曹として知られていた山本小鉄さん(故人)に、ガチギレされてしまう。

「私としては、もう行けるところまで行こうっていう感じでしたね。それで、小鉄さんにめちゃくちゃ怒られて……怒ってくれる人がいて良かったなあと思います。ある程度、DDTという下地があったこともあって世の中に名前が通っちゃって、怒るに怒れないみたいな空気がある中で、山本小鉄さんという権威のある方に怒ってもらったというのは、逆にすごく良かったですね」

今日も今日とてこうなります【写真:(C)DDTプロレスリング】
今日も今日とてこうなります【写真:(C)DDTプロレスリング】

私がDDTを背負う…そのときに出てきた言葉が“アイコン”だった

 DDTの最高峰王座であるKO-D無差別級王者にもなり、両国国技館大会ではメインイベントを飾ったこともある。まさに“DDTのアイコン”なのだが、実は最初は自分から名乗り始めた言葉だった。

「これは私のワードセンスの良さですね(笑)。当時は“DDTで成り上がる”というよりも。“DDTを押し上げる”という考え方になっていたんですよ。実はDDTは髙木さんが経営のトップになるまでは違う人がいて、そのときに髙木さんから本当にギリギリのところで経営をしているみたいな話は聞いていたので、私が上がるというよりはDDTが押し上がったら結果的に良くなるという考え方に切り替わったんですよね。DDTって当時から怒られることもありましたし、あんなのプロレスじゃないといわれることもあって、それがプロレスのメインストリームに入ったら面白いなと思って、そこに全振りしたというか、そのためには自分が何をすべきかという考え方でやっていましたから。

 それで2010年に私の大嫌いなシステムである『DDT総選挙』が行われたんですが、熱狂的に支持されていた『マッスル』がマッスル坂井の引退とともに終了して、その支持が私に流れ込んできて1位になれたんです。ただの運ですよ(笑)。それでいうと、いろいろなところで運よくてここまで来たんですよね。1位になったとなると、何かをしなきゃいけない、何かをメッセージとして発しなきゃいけない。私がDDTを背負う、運よく来たけど流されてはいけない、だから何かをやろうと思って言ったのが“アイコン”だったんです。“アイコン”は結構いい言葉で、“DDTを体現している選手”というニュアンスじゃないですか。そうなると、やっぱり私なんだろうなと」

 飯伏幸太、ケニー・オメガ、竹下幸之介(KONOSUKE TAKESHITA)、遠藤哲哉、上野勇希……ディーノの後を追うように、DDTから名を上げた選手は多数いる。今はTHE RAMPAGEの武知海青も所属となり、多くの女性ファンが会場に詰めかけるようになった。

「みんな本当に頑張っているなあと思いますよ。雰囲気は、めちゃくちゃいいですね。選手間に変な派閥もないですし。これはHARASHIMAさんが作ってくれた空気だと思っていて、(髙木を除き)一番長くいるHARASHIMAさんが全然偉ぶらないというか、誰に対しても分け隔てなく接する方なので。それも自分にとっては運が良かったですよね。私は癖があるから、派閥があったら外されていたと思いますし(笑)。

 私は“今いる選手たちがDDT”だと思っているので、昔が良かった・悪かったというのは一切なくて、KANONくんが『DDTに来てまだ期間が短くて』みたいなことを話していたときも、そんなの関係ないよと。私だって、他所から来たんだし。だから、今の雰囲気こそDDTなんですよ」

 2021年から23年は、フェロモンズの一員(男色“ダンディ”ディーノ名義)として活動し、フェロモンズ解散後は上野勇希の1回目のKO-D無差別級王者時代にはチャレンジャーとして立ちはだかり、新日本プロレスの棚橋弘至引退前にはシングルマッチも行った。時代時代で、確実に爪痕を残す試合をしているのが現在のディーノだ。

「フェロモンズでやれることは全部やろうと思っていて、急になくなったときに、独り立ちしないといけないなというのは自分の中であって。そのタイミングでnoteを始めたんですよ。自分から発信できるものですし、SNS自体には辟易していて。癖のあることを言ったら、分断につながるものなので。(noteは)悪くいえば閉鎖的ではあるんですけど、自分の世界の枠組みが作れるので、その中で誰でも見ることができることと、そうでないことの使い分けができる……結構、純度が高く言いたいことが伝わるのかなと思って利用しています。抱え込みっちゃあ、抱え込みなんですけど(笑)。

(上野戦や棚橋戦は)ある程度ベテランになったから、できることなのかなとは思っています。歴史があれば引っ張ってくればいいわけですし、何ならちょっと過去を改ざんしてもいいわけですし(笑)。棚橋戦(2025.8.31のDDT後楽園大会)で『燃え尽きるのかな』と自分の中では思っていたんですけどそんなことはなくて、意外とまだできることはありますし、『これで終わった』みたいな気持ちにも全然なってなくて、それは自分の中で朗報でしたね」

(18日配信の後編へ続く)

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