記者を大事にした渡哲也さん 石川敏男が秘話「男の私から見ても惚れ惚れ」

俳優・渡哲也さんが10日に78歳で、肺炎で亡くなった。14日に所属の石原プロモーションが発表してから、生前、渡さんと親交のあった高橋英樹、吉永小百合、黒柳徹子、北島三郎らが追悼コメントを発表。石坂浩二や中尾彬もテレビで渡さんへの思いを語った。渡さんの人柄について、「優しい」「律儀」などとみな口を揃えるが、芸能リポーターの石川敏男さんもその1人。石川さんは25歳で女性誌の記者になり、渡さんが「西部警察」を撮影していたころから渡さんの取材をしてきた。石川さんに渡さんとの思い出を聞いた。

渡哲也さん【写真:Getty Images】
渡哲也さん【写真:Getty Images】

「銀座でバッタリ会ったときは…」

 俳優・渡哲也さんが10日に78歳で、肺炎で亡くなった。14日に所属の石原プロモーションが発表してから、生前、渡さんと親交のあった高橋英樹、吉永小百合、黒柳徹子、北島三郎らが追悼コメントを発表。石坂浩二や中尾彬もテレビで渡さんへの思いを語った。渡さんの人柄について、「優しい」「律儀」などとみな口を揃えるが、芸能リポーターの石川敏男さんもその1人。石川さんは25歳で女性誌の記者になり、渡さんが「西部警察」を撮影していたころから渡さんの取材をしてきた。石川さんに渡さんとの思い出を聞いた。

 渡さんは青山学院大学在学中にスカウトされて日活に入社。1965年にデビューし、「無頼」シリーズなどでスターになったのですが、日活はまもなく経営が厳しくなって、1971年にロマンポルノ路線に転換したんです。

 その際、スター俳優さんたちの多くは日活から出ていきました。渡さんもその1人で、多くの映画会社や芸能事務所から「うちへ来てくれ」と声がかかったんですけど、渡さんは石原裕次郎さんが設立した石原プロモーションを選んだんです。それは、石原プロの経営建て直しに役に立ちたいと思ったからだったんです。

 当時の石原プロは「黒部の太陽」とか製作費をかけた大作映画を作っていました。とにかくこだわって作るもんだから、借金で倒産寸前。でも、渡さんは敬愛する裕次郎さんを思って、迷わず石原プロへ入った。それで、裕次郎さんと一緒に「大都会」「西部警察」を作って大ヒットさせました。とくに「西部警察」では5年間で30億円もの資産を残したほど大成功させたんです。

「西部警察」の御殿場ロケに密着したこともあります。ヘリを使ったり、大量のダイナマイトを使って大爆破を演出したり、とにかく派手ですごいな、と思いました。ロケ終了後の食事会は恒例で、スタッフや私のような記者も混ぜてくれて、みんなで遅くまで豪快に飲んでいましたね。裕次郎さんの隣にはいつも渡さんが陣取っていましたね。

 石和温泉では裕次郎さんと2人で露天風呂に入っているところも取材させてもらいました。すごい2ショットでしょ(笑)。いい男っぷりで、男の私から見ても惚れ惚れしました。裕次郎さん亡き後、渡さんが石原プロを引き継いだわけですが、男気があって誰にでも優しい渡さんだから、舘ひろしも神田正輝もみんなついていったんです。渡さんじゃなかったら、あのクセの強い役者たちをまとめて率いていくのは難しかったと思いますね。

 渡さんは取材記者にもいつも気持ちよく応じてくれて、僕の顔と名前もしっかり覚えていてくれました。後年、大腸がんで手術をした後、銀座でバッタリ会ったときは、渡さんからお尻をポンと叩いて「元気?」と声をかけてくれました。スターなのに気さく。もうあの笑顔を拝見できないのかと思うと寂しいですね。

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