ラッシャー板前、代役から勝ち取った『旅サラダ』レギュラー 25年続いた“食リポ”技術

たけし軍団のメンバーでお笑い芸人のラッシャー板前は、朝の情報番組『朝だ!生です旅サラダ』(土曜午前8時)で25年と長きにわたり中継リポーターを担当し、日本全国から食の魅力を届けてきた“食リポ”の達人だ。芸人としての道のりや食リポへのこだわり、番組を卒業した現在に迫った。

『旅サラダ』出演のきっかけを明かしたラッシャー板前【写真:ENCOUNT編集部】
『旅サラダ』出演のきっかけを明かしたラッシャー板前【写真:ENCOUNT編集部】

「50点男」がビートたけしに弟子入り、必死だったテレビ出演

 たけし軍団のメンバーでお笑い芸人のラッシャー板前は、朝の情報番組『朝だ!生です旅サラダ』(土曜午前8時)で25年と長きにわたり中継リポーターを担当し、日本全国から食の魅力を届けてきた“食リポ”の達人だ。芸人としての道のりや食リポへのこだわり、番組を卒業した現在に迫った。(取材・文=猪俣創平)

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「学生の頃って、50点男だったんですよ」。ラッシャーはこう切り出し、芸人を志したきっかけを語った。「褒められもせず、怒られもせず、特徴がない人生でした」。

 高校を卒業してから割烹料理屋で板前修業に励んだ。しかし、「自分がやりたい」という仕事ではなかった。成人式を迎え、「俺の人生このままでいいのか? 自分がやりたいことをやってみた方がいいんじゃないか」と一念発起。ビートたけしの弟子入りを決断する。

 たけしが当時住んでいたマンションで本人を待ち伏せた。いざ直談判しようとしたが、憧れの人を前にして緊張のあまり「『弟子にしてください』って言えないんです。『あわわわわわ』ってしちゃって」。そんな狼狽するラッシャーの出で立ちは、パンチパーマに赤と黒のオープンシャツ、エナメルの靴という“チンピラ”のそれ。「ウチの師匠は僕に『刺される』と思ったらしいです」。どうにか弟子になりたいことを伝えると、たけしの部屋に通された。

「部屋に入ったんですが全く生活感がないんです。『あんちゃん何できるんだ?』って聞かれたんで、ここが勝負だと思って、2年の板前修業じゃ何もできないのに『料理ができます!』と答えました。そうしたら、ウチの師匠が、その当時は外食ばかりだったから、『たまにはこいつに作らしてもいいんじゃないか』と思ったんじゃないでしょうか。それで一応、出入りを許されて第一関門を突破しました」

 半ばハッタリではあったものの、料理担当となった。厚焼き玉子しか料理したことがなかったが、「板前の世界をやめた人間なのに、弟子になってから板前の修業が始まった感じでした」と笑顔で懐かしむ。

 そんな生活からしばらくすると、念願かなって弟子として認められた。テレビ番組での出演はとにかく必死だったそうで、「笑いを取ろうとか、そんな余裕はなかったですね」と振り返る。

「とにかく体を張っていましたね。ひびとか、骨折とかありましたよ、軍団みんな。たとえば空手家がブロック塀を割ったら、同じように思いっきりブロック塀をたたくとか、すごい挑戦ですよね。僕がやったら『ぐ~ん』と音がして、殿のいじりもうまくて他の軍団よりも運よく笑いを取れましたね。綱渡りな感じでやっていました」

 さまざまな番組に出演するうちに、思わぬ形で板前という経験が仕事につながっていった。

「意外と評判がよかったのが、僕と松尾伴内さんが出ていたフジテレビの『風まかせ 新・諸国漫遊記』です。土曜日のお昼に放送していた旅番組で、僕と松尾さんが自転車に乗って1泊2日の旅をするっていうシリーズがあったんです。それが好評だったからか、他の局からも旅番組に呼ばれるようになったのかもしれません」

 旅で訪れた漁港でも、板前修業をしていたため魚の名前も知っていた。共演する松尾が魚介類や生ものが得意ではなかったことから、食リポのシーンで見せ場もあったという。さらに、『旅サラダ』レギュラー出演のチャンスを作ったのも松尾だった。

「実は、僕の前に1年間、松尾さんが『旅サラダ』の生中継を担当していたんですよ。松尾さんは当時、年に2回くらい舞台をやっていたので番組に出られないタイミングがあったんです。そんなときに、松尾さんがABCテレビに僕をプッシュしてくれたんですよ。『俺の代わりにラッシャー使ってあげてくれる?』って。それで僕が代打で出たんです。食リポでも、僕は結構がっついて食べるんで、食べっぷりもよかったんでしょうか。代打出演から1年したときに、4月からは僕でっていう話になりました」

 代役から始まった土曜朝の食リポだが、松尾に対する気まずさもあった。「複雑でしたよね。松尾さんから代打でね……。でも、いずれ分かることだから、松尾さんにレギュラー出演することになったと報告したら、『おー、よかったじゃん。俺より絶対ラッシャーの方が向いてるよ!』って言ってくれたんですよ。涙が出ましたね」と感謝した。

昨年3月に『旅サラダ』を卒業したラッシャー板前【写真:ENCOUNT編集部】
昨年3月に『旅サラダ』を卒業したラッシャー板前【写真:ENCOUNT編集部】

『旅サラダ』で早朝ロケも「苦労なんか絶対にありません」

 25年間、1000回以上出演した『旅サラダ』。生中継での食リポで意識したのはスタジオにいる出演者だった。

「神田(正輝)さんたちをとにかく『くそ~』とか、『いいもん食べやがって~』と思わせることを目指してました。スタッフから『スタジオのテンション下がってるよ~』って教えてもらうと、心の中で『よし!』とガッツポーズしてましたね。そうしたら、おいしさが伝わってるんだなって分かりますから」

 長年出演が続いたのは、自身の食リポに「何も特徴がない」ことを理由に挙げた。「彦摩呂さんの『宝石箱や~』みたいな、気の利いたフレーズを言える才能もなかったのもありますけど、あえて作らなかったですね」と、自然体を心がけた。

 そんなラッシャーの食リポスタイルを「まいう~」でおなじみ、ホンジャマカ・石塚英彦は「まねできない」と称した。

「石塚さんが『ラッシャーさんの食リポは勉強になります』って言ってくれたんですよ。石塚さんの場合、大体収録のロケとかが多いんですって。だから、『ラッシャーさんは決められた時間の中で、決められた料理の種類を全部見せたうえで食リポもされていて、俺にはできません』って言ってくれました。その言葉はすごくうれしかったですね」

 毎週土曜の朝、全国津々浦々から生中継という『旅サラダ』のロケは、「すごく刺激的でした」と充実した現場だったようだ。

「よく『苦労はなかったのか』と聞かれるんですけど、苦労なんか絶対にありませんよ。感じたこともないですね。ただ、始めたての頃、朝一番で天ぷらだとちょっと胃にこたえた部分がありましたけど、それも慣れました(笑)。週に1回、本当に楽しみにしていましたから」

 昨年3月に番組を卒業。一番の痛手は「飛行機のマイレージが貯まらなくなった」ことだそうで、「マイルを使って、クリスマスとかにホテルで食事をするのが恒例だったんですけど、それができなくなったのが痛いですね。自腹も悔しいじゃないですか。それが一番痛いかな」と笑いながら、思わぬ家族サービスへの影響を打ち明けた。

 それでもなお、番組への感謝の言葉を繰り返し口にする。「『旅サラダ』の系列局がね、たとえば鹿児島だとか、福井だとか、何か特番があるタイミングなどで結構呼んでくれてるんです。それは非常に助かってますよね。そういうつながりは、25年間やっててよかったなって、ありがたく感じています」。

 1000回以上のロケ、生中継リポートを経験したラッシャーは、これからも自然体でバラエティーに食リポと全力投球していく。

□ラッシャー板前 1963年6月15日、千葉県出身。たけし軍団の一員として、数々のバラエティー番組に出演。ABCテレビ・テレビ朝日系『朝だ!生です旅サラダ』のリポーターを25年間務め、1000回以上ロケを行い、47都道府県を訪れた。

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