ツービート結成51年 73歳ビートきよしが「相方の葬式に出ない」と決めた理由

お笑いコンビ・ツービートのビートきよし(73)が、相方のビートたけし(75)への思いを語った。今月20日、都内で行われたイベント出演。久しぶりに元気な姿を見せた後、ENCOUNTのインタビューに応じ、再びコンビで漫才をする意欲を示した。それでも、「相方の葬式には行かないよ」と言い切った。その理由とは。

自身の代名詞「よしなさい」のポーズを取るビートきよし【写真:ENCOUNT編集部】
自身の代名詞「よしなさい」のポーズを取るビートきよし【写真:ENCOUNT編集部】

コンビ解散せず、たけしから漫才の誘いがあれば「いつでも」

 お笑いコンビ・ツービートのビートきよし(73)が、相方のビートたけし(75)への思いを語った。今月20日、都内で行われたイベント出演。久しぶりに元気な姿を見せた後、ENCOUNTのインタビューに応じ、再びコンビで漫才をする意欲を示した。それでも、「相方の葬式には行かないよ」と言い切った。その理由とは。(取材・文=ENCOUNT編集部ディレクター・柳田通斉)

 きよしは、“たけし絡み”でステージに立った。東京・新宿武蔵野館で行われた映画『戦場のメリークリスマス 4K修復版』(1983年制作、大島渚監督)上映会トークショーに登壇した。「なんで俺が呼ばれたんだろ」とボヤきつつ、同作と自身がまつわるエピソードを明かした。

「実はロケ地まで行ったんだけど、大島(渚)監督から「『ワンカットしか撮れないから、全然、出ないで帰った方がいいんじゃない。その方がネタになるでしょ』と言われて、ギャラだけもらって喜んで帰ってきましたよ」

 この話は、昨年12月4日にツイッターでもつぶやいており、面白がった映画宣伝担当が、きよしにトークショー出演をオファー。文字通り、大島監督の“思いやり”が40年たっても生きた形だ。

 40年前は、ツービート、B&B、紳助・竜介ら若手漫才師がテレビ界を席巻した「漫才ブーム」(1980~82年)が落ち着き、人気コンビは個人活動が増えた時期だった。たけしは、個人でも超人気者になっていたが、きよしは当時から「相方は天才。これでいい」と思っていたという。

「昔、浅草のフランス座で一緒にいて、『漫才をやろう』と声を掛けたのは俺だからね。映画監督として、『世界のキタノ』とか呼ばれるようになっても、『俺が見つけた相方は、やっぱりすごかった。うれしい』しかなかった。妬みもなければ、ライバル意識を持ったことも全くなかったよ」

 きよしは高校卒業後、山形県から上京。東京宝映の養成所を経て、浅草のストリップ劇場「ロック座」の幕間芸人となり、その後、師匠の深見千三郎とフランス座に移籍。深見のコントでツッコミ役を担っていたが、師匠が芸人を引退した後は、レオナルド熊の弟子と漫才コンビを組むも、相方が熊から破門処分となって解散。それでも、「漫才をして、テレビに出たい」と強く思い、フランス座のエレベーターボーイから幕間芸人になったたけしに声を掛けたという。1972年のことだった。

「相方はコントにこだわって渋っていたけど、何とか2人でステージに立つようになった。最初は先輩たちに習って、ストーリーを追うネタをやっていたんですよ。なかなかウケなくてね。そんなある日、松竹演芸場に2人でいたら、作家さんが『よかったら、これ、やってみて』と言って、漫才の台本をくれたんです。それが、相方に滅茶苦茶ハマってね」

 一世を風靡(ふうび)した毒舌漫才の始まりだった。たちまち、2人は演芸場の人気者になり、評判はテレビ関係者の耳にも届いた。そして、1975年10月、テレビ東京で始まって間もない番組『爆笑パニック体当たり60分』のディレクターから電話が入った。

映画『戦場のメリークリスマス 4K修復版』上映会トークショーに登壇したビートきよし
映画『戦場のメリークリスマス 4K修復版』上映会トークショーに登壇したビートきよし

毒舌漫才の台本でコンビが開眼、テレビ初出演から快進撃

「『局に来てくれ』というから、相方と『何だろな』と思いながら行ってみたら、『この日、空いてる? テレビ撮りするから』と。信じられない思いのまま、お客さんを入れた公開録画に行ったら、コメディNO.1が先に出て、全くウケなかったんです。それで、相方と『テレビに出ている人もウケないんだから、俺たちはやるだけやって帰ろうよ』と言ってね。そしたら、お客さんが爆笑してくれて、ディレクターからは『お前ら、来週からレギュラーをやれ』と。そんな感じで、テレビ出演1度で人生が変わりました」

 そこから始まった快進撃。貧乏生活が一転し、2人は高給取りの漫才師となった。ただ、当時の事務所とは給料制の契約。ライバルで個人事務所のB&Bとは収入格差があった。

「B&Bはギャラをマネジャーと三等分して、月7000万円ぐらいもらっていて、俺らは月ウン百万円。で、相方がテレビ局のプロデューサーに出演料を聞いたら、『1本150万円』と。当時は1日5~6本の番組をやって、営業もやっていましたから、事務所はもうけましたよ~。自分たちがそこを選んだわけだから、仕方ないですけどね(笑)」

 たけしが走り続ける一方で、きよしはお笑い番組への出演が減り、俳優業に活路を見いだした。

相方ビートたけしとの「約束」について語ったビートきよし【写真:ENCOUNT編集部】
相方ビートたけしとの「約束」について語ったビートきよし【写真:ENCOUNT編集部】

ブーム去り、俳優業に活路「いなくなりなたくなかった」

「コンビは片方が売れると、片方はいなくなる感じだったけど、俺はいなくなりたくなかった。そんなとき、事務所が取ってきてくれたTBSドラマに出たら、久世(光彦)監督に気に入ってもらって、それからは久世さんの作品に出演していきました。芝居をする人が嫌いな監督なので、いかに自然体でやれるかを考えていました。でも、梅宮辰夫さんが俺との絡みでNGを出すと、『きよし、バカヤロー。お前がちゃんとやらないから、梅宮さんができないだろ』と怒られたりして。俺は役者じゃないから、『すいません』と謝っていたけど、久世さんはOKを出した後に笑って『おい。今度、遊び行こう』と声を掛けてくれました」

 久世氏の作品で俳優としての実績ができ、その後、きよしはNHK大河ドラマ『秀吉』、映画『吉原炎上』、『釣りバカ日誌』などの名作にも出演。たけしとの仕事はなくなったが、2014年4月1日付でオフィス北野に入所。28年ぶりにたけしと同じ事務所の所属になった。

「相方が『ゴルフをしよう』と言うから、『行く、行く』と即答したんですよ。プレー代を全部、出してくれるからね(笑)。で、相方が『今、事務所は?』と聞くんで、『俺はフリーだよ』と返したら、『じゃあ、うちに来いよ』となってね」

 4年後、たけしが同事務所から離れたのに伴い、きよしは再びフリーになったが、今も昔も2人の関係は良好のまま。2013年2月9日には、たけしがレギュラーだったTBS「情報7daysニュースキャスター」にきよしも出演。ゴルフをネタにした即席漫才を披露している。

「あれは、『高田笑学校』(放送作家・高田文夫氏が主宰するお笑いライブ)に2人で出ることが決まっていて、稽古もしていた中、相方が急に『ちょっと、テレビでやろう』と言い出してね。何か2人で笑っちゃっていましたけど、終わったら『もう、高田笑学校はいいか』だって(笑)」

 きよしはたけしの話になると、笑顔になる。それだけ、大事に思っているからだ。頻繁にやり取りする関係ではないが、2人で「どっちが先に死んでも、相方の葬式には出ない」と決めているという。理由を聞くと、きよしは声のトーンを抑えて言った。

「死んだと聞いても、式とかに行かないで自分の目で確かめなければ、『まだここ(横)にいるな』という感覚が残るからですよ。だって、コンビは解散していないんだもん」

 今もテレビでたけしを見ると、「自分が不利になることは絶対に言わない。頭、いいよ~」と感じているという。自身は、1年前に腎臓疾患で入院するも克服。健康を取り戻した今、「また、漫才の誘いがあったら?」と聞くと、「いつでも」と即答した。苦楽をともにしたツービートの魂。それは、この先も強く生き続ける。

□ビートきよし 本名・兼子二郎。1949年(昭24)12月31日、山形県最上町生まれ。高校卒業後、上京して東京宝映の養成所を経て、浅草のストリップ劇場「ロック座」の幕間芸人となる。その後、同じ浅草のフランス座に移籍し、コメディアンの深見千三郎に師事した。そして、同座でエレベーターボーイから幕間芸人となっていたビートたけしと漫才コンビを組み、2度の改名でツービートに。たけしが速射砲で毒舌を吐き、きよしが「よしなさい」と突っ込むスタイルが受け、「漫才ブーム」をけん引するコンビとなった。ブーム後は個人での活動が主となり、ドラマ、映画、ラジオ番組などに出演。ショー、講演も行っている。2014年4月1日付でオフィス北野へ所属。28年ぶりにたけしと同じ事務所の所属になったが、18年3月に退所して現在は個人事務所のBKプロダクションで活動。21年より、配信サイトPococha(ポコチャ)にて配信開始し、同年7月5日、同じく配信サイトのふわっちで配信を始めた。プライベートでは4人の子供(女1人、男3人)をもうけている。血液型B。

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