【オヤジの仕事】父子家庭だった俳優・秋野太作さんの父親が教えてくれた人生で気をつける3つのこと

「優しさって大事なんだ」としみじみ語る秋野太作さん【撮影:山田隆】
「優しさって大事なんだ」としみじみ語る秋野太作さん【撮影:山田隆】

剣舞の達人だった父は根っから優しい人だった

 オヤジは印刷業をしながら、剣舞を披露する芸人でもあった。だから、戦争中は兵隊にはならずに従軍慰問団として戦地を回って剣舞を披露していたんだ。戦後は仕事が休みの日に、地方から呼ばれて学校や公民館で披露するようになった。僕よりずっとイイ男でね。学校に顔を出すと、先生やお母さんたちがざわついたくらい(笑)。そんなだから、ある日、飲み屋の酌婦がオヤジの寝床に潜り込んできちゃった。タバコをふかしながらニヤニヤ笑って「明日から私のことを母ちゃんと呼びな」って言ったのを覚えてるよ。

誰もがアッと驚く夢のタッグ…キャプテン翼とアノ人気ゲームのコラボが実現

 それからは地獄。シンデレラの継母みたいな、典型的な継母だったから。暴力もあったよ。僕が顔を腫らして血を流しているのを見て、オヤジが僕をそっと呼んで「あれはな、血の道が悪いかわいそうな女なんだよ。だから、月に一度、人が変わるんだ」って慰めたことがあった。それで、僕も継母とは正面から対立せず、何を言われても右から左へ聞き流すようになった。おかげで、俳優養成所に入って演劇講師にひどく怒られても、周りからいじめられても、まったく気にしないタフさを身に着けることができたよね。

 オヤジは根っから優しい人だった。僕は一度も殴られたことも、怒鳴られたこともなかった。だから、オヤジは無口で多くを語らなかったけど、僕はものすごく信頼していた。でも、逆に優しすぎて決断力がなくて、そんなひどい女でも追い出すことができなかったんだな。育ち盛りの男の子2人抱えて、どうしようもなかったんだろうし。オヤジがあるとき言ってたよ。「人生で気をつけることが3つある。女、カネ、健康だ」って。僕もこれまで生きてきて、確かにそうだったなって思うよ。

寝たきりになった父親に寄り添った5年間

 大学に進んで20歳のとき、継母に「出ていけ!」って言われたのを機に家を出た。その後、まもなく俳優養成所に通うことになって、それをオヤジに告げたら喜んでいたね。大学出の給料が2万5000円の時代に、僕に3年間、月3万円を送って援助してくれた。おかげで演劇の勉強に集中することができた。僕が日生劇場とかの大舞台で主役をやるようになると、知り合いを引き連れて観に来てくれて、観劇のあとはみんなに一杯おごったりして嬉しそうにしていたらしい。

 オヤジは僕が30代半ば、67歳のときに脳血栓で倒れて、その後も2度、3度と倒れて寝たきりに。なのに継母に放り出されちゃったから、72歳で亡くなるまで5年間、僕が面倒をみたんだ。温泉の付いたリハビリ施設と僕の家を行ったり来たりで、施設にいるときも毎週会いに行ってね。大変だったけど、それでも京都見物にでも連れて行ってやれば良かった、とか、一度ぐらい飛行機に乗せてやればよかった、ってもっと親孝行すれば良かった、って今でも思うんだよね。

□秋野太作(あきの・たいさく)1943年2月14日、東京都台東区上野生まれ。本名:津坂匡章。日大法学部在学中の1963年、俳優座養成所に第15期生として入所。1967年、木下恵介劇場「記念樹」(TBS)でデビュー。ドラマ、映画の「男はつらいよ」シリーズやドラマ「必殺仕掛人」(TBS)などの“必殺シリーズ”、「俺たちの旅」「俺たちの朝」(日本テレビ)、舞台は「リア王」(日生劇場)、「屋根の上のバイオリン弾き」(帝国劇場)などで活躍。2003年頃から「踊る!さんま御殿!!」(日本テレビ)や「怪傑えみちゃんねる」(関西テレビ)などのバラエティでも活躍。2020年秋、映画「戦国ガールと剣道ボーイ~正々堂々~」公開予定。

次のページへ (3/3) 両親はともにパッと目を引く舞台芸人だった
1 2 3
あなたの“気になる”を教えてください