【週末は女子プロレス#54】ルーズソックスの女子高生レスラーで一世風靡 千春が抱いた当時の葛藤と引退後の現在

1990年代、世の中を動かしていたのは女子高校生だった。そういっても過言ではないくらいの女子高生ブーム。当時の社会現象を象徴するアイテムが白のルーズソックスで、それをはいてリングに上がっていたプロレスラーがいた。千春である。

プロレスラーとなったきっかけを明かした千春【写真:新井宏】
プロレスラーとなったきっかけを明かした千春【写真:新井宏】

紆余曲折を経て断言「プロレスは私の人生そのものです!」

 1990年代、世の中を動かしていたのは女子高校生だった。そういっても過言ではないくらいの女子高生ブーム。当時の社会現象を象徴するアイテムが白のルーズソックスで、それをはいてリングに上がっていたプロレスラーがいた。千春である。

 現役女子高生レスラーの千春はルーズソックスとバトンをトレードマークに、プロレス界で一世を風靡(ふうび)した。しかし、本人が好きで選んだスタイルではない。プロレスで評価されるのではなく、世の中の空気も手伝い、女子高生であるだけでチヤホヤされる。内心、イヤでイヤでたまらなかったという。

 父親の影響で、子どもの頃からプロレスが大好きだった。クラッシュギャルズVS極悪同盟の闘いをテレビで見ていた記憶もある。彼女の将来を決定づけたのは、たまたま近所にやってき全日本女子プロレスだ。

「チラシがポストに入ってて、小学生1000円ということで1000円札を握りしめて見に行きました。それが初めての生観戦で、井上京子選手の試合を生で見て、私も絶対にプロレスラーになるんだと思いました」

 中学3年生のとき、両親に内緒で全女に履歴書を送った。書類審査は通過。ところが、合格を知らせる返信で親に隠していたことが発覚。親の承諾欄は、友人にサインしてもらっていたのである。

「絶対にダメだって言われました。まずは受験して高校に行きなさいと」

 しかし、千春はあきらめなかった。高校進学が決まると、翌日から格闘技道場に通うようになった。とくにスポーツ経験があるわけでもなかったから、来たるべき“全女入門”に向けて準備しておこうと考えたのだ。彼女が通ったのは木口道場。数々の有名選手を輩出した格闘技の名門だ。そして入門から1年、思わぬところでチャンスがやってくる。

「当時は女子プロファンの女の子が多い時代で、プロレスラーになりたい友人がたまたまSPWFのエキシビションマッチに出てたんですよ。友人2人が毎回出てたみたいなんですけど、1人がやめるということで、対戦相手を探してるっていうんですね」

 SPWFとは、モントリオール五輪日本代表でプロレス転向後は新日本、全日本、SWSで活躍した谷津嘉章が設立、“社会人プロレス”をコンセプトとするインディー団体だ。

 木口道場で1年間練習してきただけに体力には自信もついた。これを機に、プロレスラーになるきっかけがつかめるかもしれない。千春はアマチュアのエキシビション枠で、SPWFに出場。リング練習は2日間しかできなかったが、プロの指導を受けてからリングに上がった。しかし……。

「10分間のエキシビションマッチを3日間やったんですけど、女のしばきあいみたいなケンカになっちゃって……」

 その後、千春は谷津に詫びの手紙を送ったという。エキシビションとはいえお客さんの前でおこなう試合である。ファンに見せるような内容ではなかったというのが、その理由だ。

「ふがいない試合をしてしまってすいませんでした。ギャラをいただいちゃったんですけど、お金をもらうような試合をしていないので、お返しをしたいですって書いたんです」

 ところが、谷津からの連絡はまったくの予想外。近々SPWFで女子部を作るからオーディションに来ないかというものだったのだ。

「私は女子団体に入りたかったので、どうしようと思ってもうひとりの子に相談したんです。そしたらその子には、そういう連絡は来ていないって。これって私を選んでくれたんだと思いました。それから、学業と両立させるからと両親に約束してオーディションを受けて、合格したんです」

現役時代を振り返った千春【写真:新井宏】
現役時代を振り返った千春【写真:新井宏】

現在はリングアナのほかプロレスサークルのコーチも兼任

 SPWFに入団し、プロデビューを果たしたのが1997年7月13日。わずか6日後には「第2回ジュニアオールスター戦」に出場した。しかし、若手とはいえ他団体選手との実力差は明らか。いまでいう炎上の事態に見舞われた。

「もう、地獄でしたね。あの時代にSNSがあったら、私、ホントにダメだったと思います(苦笑)。フォトジェニック賞という賞をいただいたんですけど、『え~っ』ていうお客さんの声が聞こえてきて、自分でも『え~っ』でした。申し訳ない気持ちでつらかったです。落ち込みましたね」

 本人の気持ちとは裏腹に、千春には取材依頼が殺到した。ルーズソックスは当時の女子高生の必需品。彼女にとっては日常であり、「それしか持っていなかったので(笑)」、なにも考えずに試合でも使っていた。それがかえって目についてしまい、本人の意思とは別のところで大きな注目を浴びてしまったのだ。

「私、全然いい試合をしていないのに誌面で紹介されたり、女子高生レスラーというだけで話題になるのがホントにイヤでした。井上京子さんやブル中野さんが好きだったので、ホントはヒールをやりたかったんですよ。なので、ちょっと違うよなと思いながらやっていましたね」

 とはいえ、知名度が上がると他団体から出稽古に来ないかと声をかけられたり、女子団体の選手と関われるようになり、次第に女子プロレスそのものになじんできた。「電車に乗ってるときとかに知らない人から『千春ちゃん頑張って!』と声をかけられたりするのはうれしかったですね」と、千春は当時を振り返る。

 高校卒業後には、女子大生レスラーに“進学”した。ところが、妊娠が明らかとなりプロレスを休業。子育てをしながらの現役復帰はあり得ないと考えていたが、仲村由佳の熱心な誘いから約5年ぶりにカムバック、NEOにレギュラー参戦し、仲村とは板橋タッグ王座も獲得した。

 が、2度にわたる眼窩底骨折から引退を決意。06年6・29後楽園が引退興行になった。それまではフリー参戦だった千春だが、最後はNEO所属選手としてリングを下りた。京子の粋な計らいにより、完全サプライズの当日発表で、1日限定の所属選手になったのだ。

「試合前の入場式で京子さんが、『今日NEOに新しく所属選手が増えます!』みたいな感じであいさつしたんです。私の引退興行なのになんでそんなこと言うの? とイラっとしたら『千春!』と言われて、もう大号泣でした」

 ブランク期間中、忙しい子育てとは別に彼女は虚無感をおぼえていた。カムバック後には大好きな京子のもとで試合をし、所属選手とほぼ同じ業務をこなしてきた。そんな千春の姿から、プロレスに戻った喜びが京子に伝わったのだ。さらに千春は引退後もプロレスに関わろうと決めていた。10年末の団体解散まで、リングアナウンサーとしてNEOのリングに上がり続けた。

 その後も単発でリングアナを続け、13年5月からアイスリボン所属になった。現在はプロレスサークルのコーチも兼任、後進の指導にあたっている。コーチ業ではレスラーを目指す女性はもちろん、「アイスリボン男性向けおりじなる運動サークル、略しておじサー」も受け持っているという。

 過去、木口道場やスポーツジムで教えていた経験が生きている。また、必ずしもトップレスラーではなかった経験も、後進の指導に役立っていると千春は言う。

「教えていると昔の自分の思い出したりします。私って弱かったし、できるレスラーではなかったので、できない子の気持ちがよくわかるんですよ。どうしてできないの? じゃなくて、できないことを理解する。できるためにこうしてみようということを指導してますね。プロレスラーって当たり前のように受け身を取ってるけど、ゼロをイチにするのってホント大変なんですよ。

 できなかった受け身を1回できたときって大きな一歩で、それを生み出す仕事をさせてもらっているのがありがたいなって。それって自分にもプラスになるし、生み出せた瞬間がホントにうれしい。なかにはお子さんがいる選手、練習生もいます。私も子育てしながらプロレスやってたので、そういう人たちの気持ちに寄り添えたらいいなって思っていますね」

 彼女の指導からデビューした朝陽は、入門時はまだ中学生だった。いまでは、春輝つくし引退、藤本つかさ休業のアイスリボンを支える近未来のエース候補だ。また、長男はすでに社会人。早いもので、もう23歳になったという。「プロレス好きで、とくにFREEDOMSが好きで一緒に見に行ったりもします。ただ、私のしてることにはあまり興味もってくれないかな(笑)」

 物心ついた頃からプロレスと接し、学生から母になってもリングに上がり、引退後も大事な部分でプロレスに関わっている。決して大きな実績を残したわけではないけれど、これまでの経験すべてが現在に役立っているからこそ「プロレスは私の人生そのものです!」と言い切れる。当時は苦痛でしかなかった「女子高生レスラー」の肩書き。いまでは決して珍しくなくなったのも、千春という先人の功績あってこそである。

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