日本人初パリダカドライバーのぶっ飛んだ人生 ラリー初挑戦は19歳、きっかけは女子大生

主催する「THE銀座RUN」は名車がずらり集結【写真:ENCOUNT編集部】
主催する「THE銀座RUN」は名車がずらり集結【写真:ENCOUNT編集部】

学校に車を乗りつけて… バリケード封鎖の学校を開放

 中学校の友達が軽自動車を持っていたので、乗らせてもらって、遊び始めましたね。車はホンダのN360といって、31馬力で、これも当時一番パワーがあるという話題の車でした。18になったときに、限定解除の試験があって、それを受けて晴れて普通免許になった。だから生意気でしたね。おやじの車を借りて、高校3年生の文化祭のときに車で高校に乗りつけて、かわいい女の子を誘って六本木にお茶飲みに行ったり、生意気やっていましたよ。

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 また、当時は学生運動がすごい盛んなときで、東大が燃えちゃったり、その最中にいました。俺はそういう意味でノンポリで、ぽわーとしていたんだけど、ある日朝、学校に行ったら、中に入れない。高校生も一部インテリの連中が騒ぎ出して、学校をバリケードで封鎖しちゃったわけ。普通のやつはラッキーと言って帰って遊んで終わりなんだろうけど、俺は好奇心があった。

 ネゴシエーターになって校長と話すと、校長は校長でもう涙声で、「根本君、卒業式だけは何とかやらせてくれ」と言うわけよ。「分かった、交渉するから俺たちの好きにやっていい?」と言ったら、「任せる」というから好き放題やったね。君が代なし、それからパーティー形式で、バンドも入れていいね?と言って。俺が総合司会をやって、卒業式を無事に終わらせて、バリケード封鎖も止めさせた。高校卒業してすぐにおやじの会社を継いじゃったんだけど、そんな青春を過ごして面白かったよ。

 俺はおやじの会社で働きつつ、19歳のときにラリーと出会いました。これも軟派な俺らしいエピソードだけど、おやじが文京区のスキー教室みたいなのを教えていたのよね。俺もそこにサブで講師みたいに手伝い行ってたりしたときに、かわいい女の子がいて、仲良くなったわけ。

 それが共立女子大の自動車部のキャプテンだった。いろんな車の話をしているうちに、「今度、私たちラリー出る」って言うからさ、「エッ!」って目輝かせたよね。レースとかラリーってなんとなく憧れていたけど、実態が分からないというか、当時は情報がそんなにないじゃない。だから、「俺も出たい」と言って、当時おやじがコロナのマークIIに乗っていたので車を借りて、友達を2人誘って3人で出たのが生まれて初めてのラリーでした。

□根本純(ねもと・じゅん)1951年5月25日、神奈川・藤沢市出身。81年、日本人として初めてパリ・ダカールラリーに挑戦。97年まで13回出場し、完走6回、リタイア7回。5大陸55か国200万キロを走破。元文京区議会議員。現在はツーリングイベント「THE銀座RUN」などを主催。秋には「THE清里RUN」を行う。「VAZ☆Club De i」主宰。

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