子宮全摘手術でぼうこう裂ける…目覚めると医師が泣きながら「ごめん」 約11時間手術台にいた女性の壮絶闘病
「先生、休み明けでボケてへんやろな」――。約10年前、子宮頸(けい)がんを告げられ、子宮の全摘出手術を受けた寺本純さんは、そう笑って振り返る。担当医が前日まで冬休みを取っており、休み明け最初の手術が自分だったからだ。手術で思わぬ事態が起きた。帝王切開歴のある寺本さんは子宮とぼうこうが癒着しており、医師が子宮を取り出そうとしたところ、ぼうこうまで一緒に引っ張られ、裂けてしまった。壮絶な闘病生活の後、職場復帰し、清掃業で独立を果たした。現在は大きな後遺症もなく、生き生きと日々を送っている。適応障害、がん、そして予期せぬ手術中のアクシデント。何度も立ち止まりながらも歩き続け、自分らしく輝ける日々を手にするまでの過程を聞いた。

重圧で「適応障害」になった営業時代、療養を経て清掃業へ
「先生、休み明けでボケてへんやろな」――。約10年前、子宮頸(けい)がんを告げられ、子宮の全摘出手術を受けた寺本純さんは、そう笑って振り返る。担当医が前日まで冬休みを取っており、休み明け最初の手術が自分だったからだ。手術で思わぬ事態が起きた。帝王切開歴のある寺本さんは子宮とぼうこうが癒着しており、医師が子宮を取り出そうとしたところ、ぼうこうまで一緒に引っ張られ、裂けてしまった。壮絶な闘病生活の後、職場復帰し、清掃業で独立を果たした。現在は大きな後遺症もなく、生き生きと日々を送っている。適応障害、がん、そして予期せぬ手術中のアクシデント。何度も立ち止まりながらも歩き続け、自分らしく輝ける日々を手にするまでの過程を聞いた。(取材・文=佐藤勇馬)
現在59歳の寺本さんは、大阪を拠点に清掃業を手掛ける株式会社ダイキチの高槻エリアでフランチャイズオーナーを務めている。清掃業の前は、車や保険の営業職として働いていた。保険会社には約7年間勤め、出張所長を任されるまでになった。
物を売ること自体は嫌いではなかった。しかし、営業には常に数字と期限がついて回った。
「契約を何件取ってこないといけない、いつまでに売らないといけないというのが、すごくプレッシャーでした。営業成績が自分の価値みたいになっていたんですよね」
保険会社で所長になると、自分だけでなくグループのメンバーの成績も背負うことになった。人間関係にも苦しみ、トイレに呼び出されて「誰のおかげで給料もらってるねん」と言われたこともあったという。
我慢を続けたものの、「このままだと自分がつぶれる」とメンタルの不調を感じ、医療機関を受診。適応障害と診断され、仕事を休んで療養することになった。
体調が戻り始めると、リハビリのつもりで運送会社のアルバイトを始めたが、保険会社時代の顧客から「1か月だけ手伝ってくれへん?」と別の仕事に誘われた。それが清掃業だった。
当初は1か月だけのつもりだったが、現場では清掃以外の相談も受けるようになり、次第にやりがいも感じるようになった。運送会社から次の勤務について連絡が来た時、「こっちを手伝うことになったので辞めます」と伝えた。
意外にも、掃除が得意だったわけではない。
「私、そんなにきれい好きだったわけではないんです。でも、人に喜んでもらうことが好きなんです。きれいにして『ありがとう』と言われることに、すごくやりがいを感じました」
ノルマに追われた営業時代とは違い、目の前の汚れを落とせば、その仕事が相手の喜びにつながる。清掃という仕事が寺本さんに合っていた。

子宮と癒着していた…「ぼうこうが裂ける」惨事
さらに人生を大きく変える出来事が起きたのは、45歳の頃だった。
自治体から届いた検診の案内を見て、友人から「一緒に行かへん?」と誘われた。40歳の時にも案内は届いていたが、保険会社で働いていた当時は忙しく、受けていなかった。
初めての検診で、子宮頸部の軽度異形成が見つかった。すぐにがんというわけではなく、定期的に経過を見ることになった。子宮頸がんの前段階にあたる「軽度異形成」が消えたと思えば再び現れ、中等度になった後にまた軽度へ戻る。そんな状態が約2年続いた末、医師から子宮頸がんを告げられた。
「上皮内でがん細胞にはなっているけれど、『まだ浸潤していないので、今取れば大丈夫』という説明でした」
提示されたのは、子宮頸部を部分的に切除する円すい切除と、子宮を全摘出する手術だった。これから子どもを産むつもりはなく、卵巣を残すことができると説明を受けたため、「取ってしまった方が心配はなくなる」と考えて子宮の全摘出を選んだ。
腹腔(ふくくう)鏡手術が行われることになったが、一つ心配な点があった。寺本さんは息子を帝王切開で出産しており、医師から事前に「どこかが癒着している可能性がある」と説明された。
「先生から『そこだけが心配だから丁寧にやります』と言われていました。リスクについても聞いていましたし、同意書にもサインしました。先生を信じていたので、『お願いします』という気持ちでした」
そんな中、手術の日が決まった。
「私の手術の前の日まで先生が冬休みを取っていて、休み明け最初の手術が私だったんです。『先生、休み明けでボケてへんやろな』って思ったんですよ。もちろん、関係ないと思うんやけどね(笑)」
笑って話す寺本さんだが、手術後に全身麻酔から目を覚ますと、周囲の人たちが心配そうに顔をのぞき込んでいた。
「先生が泣きながら『ごめん』と謝っていました。どうしたんだろうと思って」
あとから受けた説明によると、帝王切開の影響により、ぼうこうが子宮と癒着していた。時間をかけて癒着をはがしたが、約1.5センチの癒着部分が残り、それを確認できないまま子宮を引きずり出したため、ぼうこうも一緒に引っ張られて裂けてしまったのだ。
損傷した場所の修復は難しく、最終的に腹部を縦に切る手術に切り替えて縫合した。寺本さんは約11時間、手術台の上にいたという。苦難はそれで終わりではなかった。手術から2日ほどたち、トイレで排便した後のことだった。
「何もしてないのに、なんかぬれてるんです」
医師に伝えると尿が漏れていた。修復した部分が再び開いてしまっていた。しかし、すぐに縫い直すことはできなかった。
「もう一回手術できるようになるのは『傷がちゃんと治ってから半年後ぐらい』と言われて……。『半年、このままなん?』って、がくぜんとしました」
そこで医師が提案したのが、ぼうこうに尿をためないようカテーテルを入れ、傷口が自然にふさがる可能性にかける方法だった。
激痛で横になれず「立ったまま寝ていました」
そこからの日々を、寺本さんは「子宮頸がんだったことを忘れるぐらい、ぼうこうの治療の方が壮絶だった」と表現する。
カテーテルが抜けないよう、ぼうこうの中ではバルーンが膨らんでいる。傷ついた内部にそれが触れているような感覚があり、すさまじい痛みが襲ってきた。
「痛み止めは6時間に1回しか飲めないから、ずっと時計を見ていました。座薬も使いました。どちらもほとんど効かなかったんですけどね」
横になると激痛が走った。立つと少し楽になる。
「病室のベッドの横に、ご飯を食べる時に使うテーブルがあるじゃないですか。それにもたれながら、夜は立ったまま寝ていました」
正月には一度、自宅に戻った。尿をためるバッグはぼうこうより低い位置に置く必要があり、床に寝ることができず、急いでベッドを買った。入浴もできなかった。シャワーは浴びられるものの、カテーテルと尿バッグを付けたままだ。
「これが取れなかったら、温泉にも行けないのかと思ってショックでした。痛みは変わらず、家でも『痛い、痛い!』と叫びまくっていました」
それでも医師を強く責める気持ちはなかった。「すごくいい先生でしたし、ものすごくショックを受けているのが伝わってきたので」。手術直後に泣いて謝っていた姿が忘れられなかった。
手術の翌年の3月初めごろ、穴がふさがったかを確認する検査を受けた。膣(ちつ)に色の付いた液体を入れ、漏れていればガーゼに色が付くが、最後まできれいなままだった。
「『あ、ふさがった!』って。先生と飛び上がって喜びました」
ただ、すぐ元通りというわけではない。5月ごろにマンション清掃の仕事依頼があったが、当初は長い療養で体力が落ち、立っているだけでも苦しかった。それでも現場へ出るうちに体がなれ、少しずつ仕事も増えていった。
「家にずっといても、逆に体がおかしくなっていたかもしれませんし、結果的には仕事に戻ったことがよかったのかなと思います」
月7~8万円の収入から独立で売り上げ約60万円へ
清掃の仕事を続ける中で、寺本さんには新たな思いが生まれていた。
「ただの掃除のおばちゃんで終わりたくない。オーナーになれたらいいのにな」
別のオーナーのもとで10年以上働き、清掃以外の業務も担うようになった。それでも従業員のままだと、どれだけ頑張っても報酬には反映されにくい。転機となったのは、別のオーナーが飲食店の仕事に戻るため、担当していた清掃現場を頼めないかと持ちかけてきたことだった。
いったん下請けのような形で仕事を任せてもらい、独立資金をためた。3年ほどかけて独立するつもりだったが、2年目でオーナー登録が実現した。
現在は運送会社の事務所、工場の事務所やトイレなどを担当している。
従業員時代の収入は月7~8万円ほどだった。現在はオーナーとして自ら営業しながら仕事を増やし、今回の取材時点で売り上げは月60万円近くなった。諸経費などを差し引いても、手元には45万円弱が残るという。
「でも、売り上げをどんどん増やそうとは思ってないんです。清掃は人手が必要な仕事だから、一人で全部抱えられるものでもない。欲張らず、ちゃんとお客様に満足していただける仕事をしたいと思っています」

「立ち止まってもいい。下がる時でも前を向いて」
気付けば闘病から約10年が過ぎたが、現在、寺本さんは大きな不自由なく生活している。生死にかかわる病気やアクシデントを経験したことで、人生への考え方が大きく変わった。
「病気で『命を失うかもしれない』と感じるような経験をしたことで、『自分は何か意味があって生かされてるんちゃうかな』と思うようになりました。『まだ死んだらあかんのやな、何かしなあかんのやな』って。私の場合だったら、生かされたことで、こうやって自分の経験を伝えて同じような境遇の方々を励ますこともできます」
病気や治療、社会復帰に苦しんでいる人に伝えたいことがある。
「周りは『前向きに』『ポジティブに』『悪いことを考えたらあかん』と言いますけど、苦しんでいる当事者は、そうは言っていられない時もある。私は、立ち止まってもいいと思う。後ろに下がってもいい。でも、下がる時でも前を見ながら下がればいい」
立ち止まっても後ろに下がっても視線だけは前を見据えて──。苦しかった頃、寺本さんは鏡の中の自分に笑いかけていた。
「本当は『どうしたらいいんやろう』と気弱になっている。でも、鏡を見て笑いながら『大丈夫、きっとうまくいく』って言ってると、だんだんそんな気になってくるんですよ。鏡の中の自分から力をもらっていたような気がします」
今度は、その言葉を闘病する人たちに向ける。寺本さんは「普通の人がなかなかしないような経験をした人には、その人にしかできないことがあると思う。その経験を生かせる時が絶対に来ると思うんです」とした上で、「今はつらくても、病気が治って『私も治ったから諦めないで』と誰かを励ませる日が来るかもしれない。負けずに頑張ってほしいです」と呼びかけた。
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