日本人初パリダカドライバーのぶっ飛んだ人生 ラリー初挑戦は19歳、きっかけは女子大生

元プロラリードライバーの根本純さん(71)は激流のような人生を歩んできた。湘南の裕福な家に生まれたものの、父親の会社が倒産し、6畳一間に家族4人で暮らす少年時代を経験。17歳で免許を取り、ラリーの道に進むと、箱根の峠での猛特訓を経て、世界で最も過酷とされるパリ・ダカールラリー(現ダカールラリー)に日本人として初挑戦、トータル13回にわたって出場した。その後は文京区議会議員、国会議員の公設秘書などを経て、現在は旧車イベントなどを主催している。ぶっ飛んだ人生をひも解く連載の1回目。

パリダカ13回出場の根本純さん【写真:ENCOUNT編集部】
パリダカ13回出場の根本純さん【写真:ENCOUNT編集部】

父の会社が倒産 家族4人で6畳一間からの再出発

 元プロラリードライバーの根本純さん(71)は激流のような人生を歩んできた。湘南の裕福な家に生まれたものの、父親の会社が倒産し、6畳一間に家族4人で暮らす少年時代を経験。17歳で免許を取り、ラリーの道に進むと、箱根の峠での猛特訓を経て、世界で最も過酷とされるパリ・ダカールラリー(現ダカールラリー)に日本人として初挑戦、トータル13回にわたって出場した。その後は文京区議会議員、国会議員の公設秘書などを経て、現在は旧車イベントなどを主催している。ぶっ飛んだ人生をひも解く連載の1回目。(取材・構成=水沼一夫)

 生まれは湘南の鵠沼といって、江ノ電の鵠沼駅があるんですけど、そこから江ノ島に向かって流れる境川沿いで育ちました。幸いにして生まれたときは、割りとでかい家で、300坪以上あったんじゃないかな。船止まりとバラ園もあったしね。おやじはすごいスポーツマンで、ヨットをやったり、サーフィン以前の波乗りをやっていました。

 そんなモダンな地で、俺も3歳からスキーをやらせてもらったり、そんな生活をしていたんですけど、残念ながらおやじの会社が、俺が小学校2年生のときに倒産して、引っ越ししました。いきなり家が文京区本郷の6畳一間になって、「エエッー!」みたいな生活。両親と弟の4人でそこで5年ぐらい暮らしましたね。倒産しちゃってるから自転車も買ってもらえなくなっちゃったし、やっぱり我慢が結構ありました。それなりに良い環境で生まれ育って、スキーも楽しんでいて、いきなりこっち(文京区)に来ちゃって、我慢。母はもちろん働いて、共稼ぎしていましたよ。

 おやじは持っていたスバル360も売っちゃいましたね。コンバーチブルといって屋根がキャンバストップで丸めるようなオープンエアだったんですよ。おやじは車が好きで、幼稚園のとき、江ノ島方面に行く横浜新道ってあるでしょ。そこで車に乗せてもらって、「純、これが100キロだぞ」と言って、100キロ出したんですよ。ものすごい音と振動と風で、「いや、100キロってすごいな」と思ったのはそのとき強烈に覚えていますね。

 東京は知らないことだらけでした。学校に行ったら28人の2クラスしかなくて「そんな世界なの、東京って」と思いましたね。猫の額みたいな校庭だし、舗装してあるから、外履き替えなくてそのまま遊べるみたいな、もう全てがカルチャーショックだったんですけど、俺は割と社交性があって、すぐクラスのボスみたいになっちゃった。おやじはおやじでやっぱり社交性がある人だったから、PTAを手伝ったりして、先生とも仲良くなったりして、そんなことでどんどん好きなことをやらせてもらっていました。

 おやじは事業を立て直して、ラビットというスクーターを買いました。本郷の家から房総半島の方まで後ろに乗って行ったことも覚えていますね。俺が高校ぐらいのときはもうだいぶ会社が順調だったみたいで、クラウンSといって、クラウンの中でもスポーティーなクラウンがあった。俺は16歳から免許が取れる割と最後のほうだったんですよ。16になって免許を取れたんだけど、さすがにおやじに言ったら取らせてくれなくて、それで17の時に、母の口利きで自動車教習所に3日通ったかな。それでポイントを覚えて、いきなり鮫洲の試験場に直接免許を取りに行って、2回おっこって3回目に受かったんですよ。だから17で、それこそ安く免許(当時は軽自動車限定免許)を持つことができたんです。

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