難関大、大手銀行員を捨てて「海の極寒」へ 水中写真家が流氷とグリーンランドを経て伊豆・大瀬崎で挑む“青春の帰還”
受験勉強を勝ち抜いて手に入れた難関国立大の学歴と、横浜銀行員という安定したキャリア。それを脱ぎ捨て、海の世界へと飛び込んだ男がいる。水中写真家・茂野優太(35)。北海道・知床の流氷下や北極圏グリーンランドといった過酷な極寒の海に挑み、2025年には世界的な月刊誌『National Geographic』(米国版)にも作品が掲載されるなど、第一線で活躍を続けている。現在、自らの原点である伊豆半島・大瀬崎で、大きな覚悟を胸に新たな挑戦を開始した。これまで歩んできた足跡と、海にかける思いを追った。

18歳の時、運命を激変させる出会い
受験勉強を勝ち抜いて手に入れた難関国立大の学歴と、横浜銀行員という安定したキャリア。それを脱ぎ捨て、海の世界へと飛び込んだ男がいる。水中写真家・茂野優太(35)。北海道・知床の流氷下や北極圏グリーンランドといった過酷な極寒の海に挑み、2025年には世界的な月刊誌『National Geographic』(米国版)にも作品が掲載されるなど、第一線で活躍を続けている。現在、自らの原点である伊豆半島・大瀬崎で、大きな覚悟を胸に新たな挑戦を開始した。これまで歩んできた足跡と、海にかける思いを追った。(取材・文=幸田彩華)
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幼少期の茂野は、父に連れられて行った江の島や三浦半島での釣り、年に一度の家族キャンプなど、自然と触れ合うこと自体は好きな少年だった。小学校の頃は泳げなかったためスイミングスクールに通っていた時期もあったが、景色が変わらないプールで黙々と泳ぐだけの時間は決して好きになれなかったという。
中高へ進むと、生活の中心は部活一色となった。部活動に明け暮れる毎日で、一時期は自然から離れた生活を送っていた。高校で部活動を引退すると、目標を横浜国立大の合格へと切り替えた。難関を突破するため、友人との付き合いや遊びを一切断ち切り、1日12時間の猛勉強を決意。就寝時もイヤホンで英語のリスニング音声を流しながら眠りにつくほど、一心不乱に机に向かい続けた。
苦労の末に入試を突破し、横浜国立大の1年生となった18歳の時、運命を激変させる出会いが訪れる。講義で隣の席になった大学の先輩から、半ば強引に誘われたのがダイビングを始めるきっかけだった。ライセンス講習のために初めて足を踏み入れた静岡・伊豆半島大瀬崎(おせざき)の海。水中に潜ったその瞬間、価値観は一変した。
「陸上では、自分が生き物としてもっとも弱い存在として野生の中に置かれる感覚って、めったにないじゃないですか。でも水中に入った瞬間、目の前をウツボや大きな魚が泳いでいて、人間は何もできない。水中だと自分が何にもできないという感覚がすごく面白いなと思ったんです。なおかつ、自然の生き物がそのままの姿で生きている。自分が弱者として彼らと向き合った時、それがすごく新鮮で『こんな世界があったのか』と衝撃を受けました。野生の中に入っていく感覚に魅了され、どんどんハマっていきました」
それ以上に圧倒されたのは、大瀬崎で出会った大人たちの生き様だった。そこには学生だけでなく、社長やダイビングインストラクターや地元の漁師、宿のおばちゃんたちが、海の魅力を本当に楽しそうに語り合う姿があった。当時の茂野にとって、人生の正解とは「良い大学に入り、良い会社に就職し、都内に一軒家を買うこと」だった。しかし、大瀬崎での出会いは、人生の選択肢と価値観の軸をがらりと変えた瞬間だった。週末になると大瀬崎へ通う日々が始まり、自身で立ち上げたダイビングサークル「OceanKIDs」は、当初わずか3人だったメンバーが400人規模にまで拡大。大学卒業までに潜った本数は、実に800本に達した。
「月曜から木曜までに大学の授業とアルバイトを全て詰め込んで、金曜と土日は大瀬崎に行く。だから、ほぼ友達と遊ばない大学生活でした」

大学4年の頃、「減圧症(潜水病)」を発症
大学4年生の頃、過酷な試練が茂野を襲う。知識不足のまま深い潜水を繰り返し、体内に窒素が溜まる「減圧症(潜水病)」を発症した。急浮上などが原因で体内の窒素が気泡化し、神経や血管を圧迫するこの病気により、茂野は腕の感覚が失われ、手が上がらなくなった。
治療には「高気圧酸素療法(再圧治療)」が用いられる。これは大気圧より高い気圧に調整された専用の装置(高気圧チャンバー)内に患者を収容し、高濃度の純酸素を吸入させる治療法だ。高い気圧によって体内の窒素気泡を小さく圧縮すると同時に、純酸素の吸入によって窒素の排出を促し、組織への血流や酸素供給を改善させる。茂野も病院へ搬送され、6時間かけて圧力を調整していく高気圧酸素療法を受けた。
その後、半年間ほど海に入れない期間が続き、当時は強い挫折感を味わった。しかし、この苦い経験こそが、「後輩には同じ思いをさせたくない。正しい知識をつけて安全に潜ってほしい」という強い決意を生み、本気でインストラクターライセンスを取得する原動力となったという。
「最初はめちゃくちゃ落ち込みました。でも潜れないならバックパッカーでもやろうかと思い立ち、バイトで貯めたお金で日本半周の旅に出たり、海外へ行ったりしたんです。その期間に気づいたのは、自分はダイビングが好きな側面もあるんですけど、見たことのない景色や、知らない文化の中に入っていくことが好きなんだということでした。最初はやりたいことできない、好きなこともできないって思っていたんですが、抽象化して、物事を考えられるきっかけになった。今、インストラクターじゃなくて写真家という道を選ぶうえで、その期間はすごく大事だった気がします」
大学卒業後、茂野は日本三大地銀の1つである横浜銀行に入行した。配属先は希望通りの藤沢支店。湘南エリアを営業で回る忙しい日々が始まった。
「入行して1~2年目の頃は、仕事で怒られることも多くて。島型に配置されたデスクなので、怒られた後もずっと周りに人がいて気まずいんですよね。逃げ場がないなと感じてトイレに行き、スマホでインスタグラムを開いた時、海の写真がパッと流れてきたんです。決して特別な写真ではなかったのですが、『やっぱり自分は海が好きなんだな』と心から思いました。写真というビジュアルに残るものは、人を勇気づけたり元気を与えたりできる。自分は学生時代も『海はこんなに面白いぞ』と周囲に伝えたくてサークルを作ったんだ、という原点を思い出しました。そこから写真家になろう、人に何かを与えられる風になりたいと強く心に決めました」
独立を決意した背景には、現実的な計算もあった。
「毎週、海に行っていたので、全然貯金ができなかったんです(笑)。お給料を全部ダイビング代に使ってしまうなら、ダイビング自体を仕事にしてしまったほうがいい。そう思って、入行2年目で辞める決意をしました。自分は大学生の時が人生で一番楽しかった。経済的なぜいたくよりも時間の自由があることに幸せを感じるタイプなんだと気づいたんです。だから、ステータスやお金を失う恐怖はありませんでした。幸せの軸が人とはちょっと違ったんですよね」
24歳で安定した銀行を去る際、ダイビング業界の同業者からも制止されたという。
「みんな『やめとけ』と言いましたね。給料が安くて仕事がハードなことを知っているからこそ、『来てくれるのはうれしいけれど、こっちの世界は大変だぞ』と心配してくれました」

理想のシーンに出会えるのは1年に数回程度
ダイビングでは水深20~30メートル付近を中心に45~60分程度潜る。重器材やドライスーツ、撮影機材を合わせると総重量は数十キロにも及ぶ。撮影において鉄則としたのは、「生き物や環境を傷つけないこと」だった。着底は最小限に留め、生き物が嫌がれば追いかけずに引き下がる謙虚なアプローチを徹底した。
「海は、僕らがいる場所ではないので、そこに自分がお邪魔をしている立場だよって、被写体と向き合うようにしています。ほとんどの生き物が人間を襲わないので大丈夫です」
過酷な現場に挑む茂野だが、普段の身体的トレーニングは「全くしていない」と笑う。
「意外と水中は何もしないっていうのが一番いい。どちらかというと焦らないとか、反応しないとかっていうほうが練習になるかもしれないです」
水中でターゲットにしている生き物には、潜ってもなかなか出会うことができないのが現実だという。
「自分が思い描いた理想のシーンに出会えるのは1年に数回程度。潜る前にテーマを決めて10日以上張り込んでも、出会えないことのほうが普通なんです。前に狙いを定めて潜ることもあれば、散歩するように海中を巡りながら出会ったものを撮ることもあります。ただ、テーマを決めて潜るとなると、10日ほど通い詰めて、やっと1~2回出会えるかどうかという世界です」
2021年、それまで10年間で3000本以上の潜水を経験していた茂野は、北海道・知床の流氷ダイビングに挑戦した。しかし、そこで待っていたのは水温マイナス1.5度、頭上を分厚い流氷が覆う過酷な環境だった。
「南の海と違って防寒装備が全部分厚くなり、(準備にも)南のほうだと時間かかっても全然大丈夫なんですけど、北の海だとどんどん物が凍っていく。命綱をつけて出口を確保しながら潜る経験も初めてでした。それが本当に自分で潜ってこの海を理解して撮ってるっていうよりかは、理解した人に掴んでもらって撮ってる感覚があって、すごく悔しいなって思ったことを覚えています」
「この冷たい海を克服したい」。その一心で、茂野は22年から3年間、毎冬流氷の時期になると知床に1か月間泊まり込み、現地ショップのガイドスタッフとして修行を積んだ。気温マイナス10度を下回る極寒の中、毎朝日の出とともにドライスーツを着込み、チェーンソーや鉄の棒で流氷を切り開いてダイビングのエントリー口を作る作業から1日が始まる。
「一番つらかったのは寒さです。手の先とか取れそうなぐらい痛い。お客さんはいるので、毎朝4時から全員分の器材を運び、氷を割り続けて、海に浮かんでるのを陸に上げての繰り返し。それが体力的にきつかったですね。でも人類は昔にピラミッド作ってるから、きっと僕らもこうやって頑張っていたら終わるんだろうなって思うようにしてました」
この血のにじむような修行が、24年の世界的な挑戦へと結実する。クラウドファンディングで約630万円の支援を集め、北緯66度を超える極夜明けの北極圏・グリーンランドでの撮影プロジェクトを敢行した。現地のコーディネーターは、茂野たちの氷に対する知識とタフさに驚嘆したという。
「現地のガイドから『なぜ温かい国から来た君たちが、これほど氷の下に潜れて、寒冷地の知識があるんだ?』って聞かれて。知床で培ったノウハウがあったからこそ、過酷な北極の海でも安全な潜水プランを提案できたんです。グリーンランドのでかい氷山を見た後に、知床戻ってきてみると、確かに規模は小さいんですけど、世界から見た日本、日本から見た世界を両方見ることができるようになったのはすごく良かったなと思います」
しかし、現地では思わぬトラブルも発生した。狩猟道具が接触してドライスーツが破れ、極寒の海に入った瞬間に水が浸入してきた。気温マイナス8度の環境下で服を脱ぎ、ボンドで1時間かけてスーツを補修。足の感覚が4日間戻らないほどの凍傷を負いながらも、2週間で24回の潜水を遂行した。透明度50メートルを超える濃紺の世界と、水深50mほどまで沈む、巨大な氷山の姿をカメラで見事に捉えきった。

クラウドファンディング支援総額は900万円を突破
2026年4月、突然の訃報が届く。大学時代から温かく見守り続けてくれた、大瀬崎のダイビング施設「マリンスポットパートナー」の前オーナーが亡くなった。茂野にとって「父親以上にいろいろなことを話した、2人目のおやじ」のような存在だった。遺された施設は老朽化が激しく進んでいた。かつて学生たちが集った宿泊部屋は天井や床が抜け落ちて倒壊寸前。ダイビング施設もそのままでは使用できない状態だった。
「前オーナーが亡くなる直前、大瀬崎に帰ってくるかもしれないという時に、大学のサークル仲間50人ほどが集まってくれたんです。そこは僕たちにとって青春を過ごした大切な場所であり、これほど多くの人に愛されている空間なんだと再確認しました。ダイビング人口が減少し、若いスタッフも少なくなっている今、次の世代が気軽に来られる場所を失わせてはいけないと強く思いました」
茂野は即座に行動を起こした。ダイビング施設の中核部分を修繕するため、自己資金から800万円を投入。さらに、老朽化した宿泊施設や水回りを再生させるためのクラウドファンディングを開始した。このプロジェクトには300人以上の支援者が集まり、目標金額をあっという間に達成。支援総額は900万円を突破し、現在はネクストゴールとして1000万円を目指して挑戦を続けている。
「これは僕個人の力ではなく、前オーナーのおかげです。大学時代の友人や先輩、昔ここで働いていたスタッフたちが応援してくれました。自分の気持ちを発信し続けていると、結構それを周りの人は見てくれている。割と日本って冷めてるようで、応援してくれる人たちがすごく多いと思っています」
新たな挑戦を続ける茂野に「失敗する恐怖はないのか」と尋ねると、柔らかい笑みを浮かべた。
「昔は失敗するのが怖くて、すごく悩みました。でも最近は、成功する自信というより、成功するまでやり続ける、みたいな感覚です。うまくいかない期間がどんなに長くても、心折れずに、絶対うまくいくまでやろうと自信がつきました」
写真展の審査に落ちたり、企画を断られたりすることは日常茶飯事。それでも、「僕たちの仕事はスポーツ選手とかとは違うので、結果がいつ出てもいいんです。5年、10年かかったって、できたらOK。そういう意味で、続ける能力が自分にはあるって思ってからは、結構気楽になりました」と心境を明かした。
今後は、海外でも第一線で通用する水中写真家を目指している。
「10年ぐらいかけてなれたらいいなって思っています。具体的な構想っていうのは、まだそんなにないんですけど、水中撮影にイギリスの会社が来ます、アメリカの会社が来ますってなった時に、現地から有名なカメラマンを連れてきて撮影をするんです。“日本だったら優太がいるじゃん”みたいな感じになったら、日本人が日本の写真を撮れたり、良いものを作ったりしていけるんじゃないかなと。そういう仕事の仕方とかができたらうれしいなと思います」
最後に、自分の進むべき道に悩み、好きなことへ一歩を踏み出せずにいる若い世代へ向けてメッセージを求めた。
「こういう生き方をしていると『すごい覚悟だね』と言われるのですが、自分の中に最初から大きな覚悟があったわけではありません。最初は写真家になれたらいいな、くらいフワフワした気持ちでした。やりながら大事なものを積み重ねていくうちに、言葉や覚悟が形成されてきたんです。覚悟は最初に決めるものではなく、行動しながら磨いていくものだと思います。だから、最初はほんの小さな変化でいい。休日にちょっと違う場所へ出かけてみるような一歩から、変えてみてもらえたらいいのかなと思います」
確かなキャリアを捨て、海という野生の中に飛び込んでから十数年。茂野は今、世界の第一線で作品を刻みながら、自らの原点である大瀬崎で「次の世代の未来」を築いている。一歩を踏み出し、磨き上げられた覚悟とともに、彼の挑戦はこれからも続いていく。
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