「親不孝ばかりだった」 所持金1万5000円で島を飛び出した放蕩息子 キャバクラ暮らしから一変の激動人生
兵庫県の淡路島から大阪に飛び出した一夜で、人生が激変する。大阪市中央卸売市場にある水産物加工会社・株式会社三恒の水産部門で部長を務める原口卓也さんは、勢いのまま飛び込んだ環境で天職にたどりついた。一夜限りのホームレス生活、キャバクラのバイト、野球仲間との出会い……。紆余(うよ)曲折すぎる人生で味わった葛藤と転機を聞いた。

父が兼業農家で休みなく働く親の背中を見ていた
兵庫県の淡路島から大阪に飛び出した一夜で、人生が激変する。大阪市中央卸売市場にある水産物加工会社・株式会社三恒の水産部門で部長を務める原口卓也さんは、勢いのまま飛び込んだ環境で天職にたどりついた。一夜限りのホームレス生活、キャバクラのバイト、野球仲間との出会い……。紆余(うよ)曲折すぎる人生で味わった葛藤と転機を聞いた。
原口さんは今、同社の水産部門で部長職にまい進している。
社内では営業を統括する立場として、スーパーや百貨店などの小売業者に魚の加工食品を販売。バイヤーとして食材も買い付け、20~40代の後輩たちと共に深夜2時から現場に立っている。
育ったのは、大阪から離れた兵庫県の瀬戸内海に浮かぶ淡路島。実家は米や玉ねぎ、レタスなどを生産する兼業農家で、休みなく働く父の背中を見てきた。
「父の本業は建築業でした。夕方には昼間の仕事を終えて、夜は実家の田んぼや畑を耕していて。本業の休日にも収穫作業があったので、家族旅行にも行けないほど忙しかったんですけど、旅行に行けない寂しさはなかったです」
父の仕事を手伝いながら、小学校から高校では野球に青春を費やした。
「運動神経はあって、ずっとレギュラーを張っていました。中学時代は部活の練習でウォーミングアップがてら学校近くの山で6~7キロの距離を坂道ダッシュしたり、高校時代はそもそも片道1時間かけて自転車通学していたのがトレーニング代わりとなったり、いい思い出です」
工業高校卒業後は、地元にあった大手通信会社に正社員として就職する。古い電柱や使われなくなった電線を撤去する仕事に就いたが、約2か月で退職した。
「先輩たちから、嫌がらせを受けたんです。10代の社員は自分だけで、あとは40代以上の先輩たち。昼飯どきに僕だけ会話の輪に入れてもらえないのが毎日続いて『こんな大人になりたくない』と思い、きっぱり辞めました」
退職後は、地元で定職に就かなかった。先輩に誘われて、2000年に淡路島で行われた花の展覧会「国際園芸・造園博ジャパンフローラ2000」でのクルージング船の案内役や、焼肉店のオープニングスタッフなどを転々とした。
暮らしていた田舎町では、親が世間体を気にする。まともに働いていないことへの負い目もあり、実家では家族ともほとんど会話せずに過ごす毎日。しかし、「何をするべきかわからず、やりたいことを探していた」というこの期間が、のちに自身の人生にとって「ターニングポイントになった」という。
勢いで渡った大阪での初日は路上で寝泊まり
正社員を約2か月で辞め、アルバイトを転々とする生活をはじめてから約2年。ずっと、地元の淡路島で暮らしていた原口さんは、20歳で大阪へと向かった。
「いつか『島を出る』とは言っていました。でも、できなかった。そんな中で、高校時代の後輩が大阪に引っ越したと聞いて焦りを感じたんです。ちょうどそのタイミングで、先輩が食事中に『車で今から大阪に行くぞ!』と言ってくれて、急いで実家に帰ってバッグに荷物を詰め込み、そのまま淡路島を後にしました」
大阪に到着後、先輩はさっそうと地元に帰っていった。1人残された原口さんの所持金は、わずか1万5000円。その日は路上で寝泊まりし、翌日には住み込み可のアルバイト先の面接に行った。
「無料のアルバイト雑誌に『寮完備のキャバクラのウエイター』と書いてあったので、即応募したら受かったんです。ただ、寮完備ではなく、寝床は店内のソファで(笑)。それでも、日払いで5000円の仕事は自分にとってありがたかったです」
その後、約3年で勤めたキャバクラは2店舗。キャッチやウエイター、働くキャバクラ嬢の送迎と業務は多岐にわたった。そんな日々の中、出会った1人のキャバクラ嬢と恋仲に発展。いわゆる“水商売”から、原口さんが足を洗うきっかけとなった。
「同棲もした彼女からある日、お店の子への出勤確認などで他の女の子に連絡するのが嫌だからと『キャバクラを辞めてほしい』と言われたんです。僕も将来に不安があったので受け入れたんですけど、店長に『辞めたい』と言ったら、スーツがビリビリになるほどぶん殴られて。でも、無事に辞められて、約2~3か月は無職のまま仕事を探していました」
現在の勤務先がある、大阪市中央卸売市場が職場になったのは24歳。当初は「将来はバーのようなお店を持ちたい」と思い、市場内にあった酒屋で約4年働いた。そこでのつながりが、原口さんの人生をさらに動かした。
市場の野球チームをきっかけに天職と巡り会う
酒屋で働いていた当時、原口さんは大阪市中央卸売市場の野球チームに誘われた。仕事の傍ら、青春時代を捧げた野球で市場関係者との交流も深める。そんななか、勤めていた酒屋がなくなると分かり、再び人生に迷うことに。
「僕の先輩に自由な人がいて、思いつくまま沖縄やアメリカのロサンゼルスに移住するような人で。僕もその生き方に憧れていたし、酒屋の仕事がなくなるならいっそ『沖縄へ行ってみようかな』と思っていました」
移住という選択肢も頭をよぎるなか、市場の野球チームで共に汗を流していた仲間が「一緒に働こう」と誘ってくれた。現在、原口さんが勤める株式会社三恒の専務だった。
「専務は1歳下で、僕が沖縄に行くと聞いて社長にすぐさま話を通し、面接の機会を作ってくれたんです。それをきっかけに27歳で、今の会社に入りました」
現在は入社17年目で、当初の約2年はアルバイトとして勤務した。得意先への配達や魚を切る作業など、一通りの仕事を経験。若手として、いつしかバイヤーの先輩たちに憧れを抱くようになったという。
「カッコいい先輩たちをマネして、アルバイトではありながら、市場にいたお客さんをつかまえて自社の商品を勝手に売り込んでいたんです。そうしたら、面白いと見込んでくれた社長が僕を買ってくれて。正社員のバイヤーとなりました」
大阪に連れていってくれた先輩、水商売から足を洗うきっかけをくれた恋人、現在の会社に誘ってくれた野球仲間。原口さんの人生では、常に影響を与える人たちとの出会いがあった。
そして、天職と巡り合って17年目。今は、かつて放蕩(ほうとう)息子だった自分を許してくれた家族、地元の淡路島への恩返しを誓う。
「95歳の祖母もいて、田畑も残る地元にはいずれ貢献したいと思っています。会社が大阪府内で営む宿泊施設の淡路島版を作りたいし、民宿や食堂のように、地元に人が集まる場所も作りたくて。親不孝ばかりだったから、両親も喜ばせたいです」
地元の淡路島に、本州と島を結ぶ明石海峡大橋が開通したのは1998年。それまでは船で渡るしか手段がなく、当時10代だった原口さんにとって本州へ渡るのは、まさに一世一代の決断だった。勢いのままに大阪へ飛び出し、天職に出会った人生でも変わることのない故郷への思いを口にした。
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