小川直也が語る「王道プロレス」の違い 「底なし沼っぽい」三沢光晴と「馬場さん内で革命をしたかった」川田利明
“暴走王”小川直也が22日、自身のYouTubeチャンネル「暴走王ch」を更新。たった一度だけリング上で肌を合わせた三沢光晴について語ったもので、今回はこれについて考察する。

「お前らの思う通りにはしねえよ、絶対!」(三沢)
“暴走王”小川直也が22日、自身のYouTubeチャンネル「暴走王ch」を更新。たった一度だけリング上で肌を合わせた三沢光晴について語ったもので、今回はこれについて考察する。(取材・文=“Show”大谷泰顕)
小川と三沢がリング上で肌を合わせたのは、“破壊王”橋本真也が旗揚げしたゼロワンの旗揚げ第2戦(2001年4月18日、日本武道館)だった。三沢にとってはその前年の夏に新団体・プロレスリング・ノア(NOAH)を旗揚げしていたことから、まだ旗揚げから1年経っていなかった時の話になる。
小川が語る。
「あれは“破壊王”案件だよね。“破壊王”の旗揚げの時に助けに行ったんだけど、“破壊王”自体も『来てくれよ』って話だったから。そこに三沢がいたから噛み付いただけの話で。自分の中でストーリーを作りたかったし。もともと、三沢選手は偉大なレスラーってことで、俺が行くしかねえなって。まだ(当時の小川は)新参者だからね」
当時を振り返ると、三沢は秋山準と組んでゼロワン旗揚げ戦(2001年3月6日、両国国技館)にも登場したが、試合後にはゼロワンやNOAH、新日本プロレスの選手も入り乱れての大乱闘に発展。その中で三沢が口にした、「お前らの思う通りにはしねえよ、絶対!」の言葉が記憶に残った。
小川は当時を振り返り、「ちょうど背景があって。三沢さんもまだ(NOAHの地上波の)テレビ(中継)がついてない時代で。彼にとっても一番あそこが大変だったから、そこ(地上波の中継がつく)まではなんとしてでも(それまでの)つなぎじゃないけど(話題づくりをしたかった)。俺にとってもチャンスだったし、“破壊王”から『なんとかやってくれよ』って。なんで俺なんだよ! って思ったけどさ」と苦笑した。
厳密には2001年の4月9日からノアの中継は開始されているが、小川が言いたかったのは、VS三沢に2度目の接点がなかった背景には、ノアにテレビ中継がついたことによる影響が多分にあったのではないか、という話だと推察する。
その上で実際に肌を合わせた三沢のイメージを「やっぱりつかみづらいっていうの? なんか底なし沼っぽいイメージがあったよ」と語りつつ、「どこまで行っても罠が待っているような雰囲気が」あったと話した。
試合当日は、小川が村上和成とタッグを結成。対する三沢は用心棒代わりに大相撲出身の力皇を従えて登場した。
小川は、「彼らにいいところを出させておかないと。俺らがいいところを食っちゃうとマズいんだろうなと。当時はそういうノリノリでやっていた」と話したが、結果的にはこの最初の絡みが最後になってしまった。

三沢には「なんでも受け流せる自信があった」
小川によれば、「いよいよ(三沢との一騎打ち)かなって時に、(NOAHに)テレビがついちゃったから」という理由で、ゼロワンからNOAHが撤退することに。
実際、小川は「“破壊王”から『逃げられたー!』って言われちゃった」と明かしていたが、「あの時は三沢さんにしてみれば、どっちでもいいって話だったんだよ。逃げてるとかじゃなくて。なるようにしかならないから、どっちでもいいよって回答だったよ、(三沢側と)話したら」との印象を持っていると話した。
それでも小川は、当時、「小川が三沢から逃げた」と言われたことに触れ、「そんなわけねえだろって思うじゃん。だからそれ以上は探求もしなかったし、追求もしなかったしさ。だっていくら叩いても実現しないものに時間を費やすのは、機会損失につながるから。俺のなかでは事実上の撤退ってされたからには刃を納めるしかない」と振り返った。
ちなみに小川は三沢について、「なんでも受け流せるっていう自信があったんだろうね、彼は」と話すと、続けて「俺(小川)の方がキャリアが若いし、まだ入ったばっかりっていうイメージがあったから。向こうは先輩としての立ち振る舞いはすごいやってたよ。決してネガティブなことはなかったし、むしろこれからってとこで、テレビ局で一瞬に(話が)変わっちゃったから、それは残念だったね」と2度目の接点がかなわなかったことを悔やんだ。
その上で、「当時のプロレスファンが一番知っているんじゃない? 実現なるんじゃねーかって」と話すと、当時の期待値は小川以上にファンに聞いてくれ、との見解を持っていることを明かした。
結果的に小川はそれ以降は三沢と縁がなかったものの、その代わりに三沢の後輩でライバルとしても知られる川田利明と闘うことに。
「だから川田さんが(三沢の)代わりにやっている感じだから。代理っていう感じだから。そういうイメージで持ってもらえれば」「(あのまま)三沢さんとドンパチやったら、川田さんの出番もなかったし。まあ、あれじゃない。ハッキリ言えばなるようにしかならない、と思ったよ」
そう話した小川は、自身が流れに身を任せていた結果でしかないとの見解を示した。
「俺だってヒクソン・グレイシーをなんとしても(倒せ)っていうストーリーで動いてたじゃん。なんとしてもヒクソンを狩らないと、(プロレス界は)元の鞘におさまらないってなってたけど、結局、できなかったじゃん」
「必要以上のことはやらない」のが「王道」
また、三沢との2度目がなかった件について、「やっぱり背負うものがあって。やっぱり自分たちのアングル(仕掛け)の中で、要するに予想外のことをしてほしくないわけよ。予定調和のなかでやりたい。猪木さんもよく怒ってたじゃん。予定調和の中でやりやがってって」と話すと、「当時、PRIDEがなんであそこまでのしたのかって予定調和を取れなかったから、俺を使ったばかりに」と、“暴走王”らしさを最も引き出したのは、PRIDEでありハッスルだったとの私見を述べた。
たしかに当時は小川のPRIDEでの活躍やハッスルポーズが社会現象にまで至ったことを考えれば、小川の見解は決して間違ってはいないように思う。
来月13日には、2009年にリング禍で亡くなって以来、16度目となる三沢の命日がやってくる。それを踏まえた上で小川は、「彼にしてみれば不幸だったんだけど、プロレスって大変な仕事なんだなってのも、みんなに示したんじゃないかな」と話し、タイミング的には少し早いものの、改めて三沢を偲んだ格好だ。
興味深いのは、小川がここ数年、YouTubeチャンネルをスタートし、その流れで川田との再会を果たし、三沢や川田の師であるジャイアント馬場の「王道」を考える機会を得た。師匠をアントニオ猪木の「闘魂」に持つ小川からすれば、「王道」は真逆ながら、その中でも愛弟子の三沢と川田の違いに着目した。
「川田さんは馬場さん内で革命をしたかった人。馬場さんの考えからちょっと革命を起こしたかった。どうやって俺が目立つんだろうって、自問自答しながらやってたって言ってたじゃない。そこは一番の(肝)だったから川田さん(デンジャラスK)ができた」
一方、小川は三沢について、「三沢さんは馬場イズムを守っちゃったんだろうね。しょうがない場合はやるしかない。けど、必要以上のことはやらない」と感じたことを明かすと、「川田さんはもう走り出したら止まらないぜ、みたいな。だから川田さんとは久しぶりに会っても話が合うし、お互いにやりあった中でリスペクトができるんだよね」と話し、川田とは似ている部分があったとの考えを述べた。
小川に対し、三沢について話を聞いてみた結果が、同じ「王道」継承者でも三沢ではなく“デンジャラスK”川田に行き着いた。これは非常に面白い展開であり考え方だったし、小川らしさを感じさせる物言いだった。
(一部敬称略)
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