アントニオ猪木さん死去から1年、元側近が明かす“闘魂外交” 自爆テロが頻発するパキスタンでの衝撃体験

昨年10月1日、心不全のためにこの世を去った“燃える闘魂”アントニオ猪木。生前はさまざまな分野で挑戦を試みてきたが、そのうちのひとつに「闘魂外交」があった。今回は元側近として「闘魂外交」の一端を担ってきた猪木元気工場の宇田川強取締役に話を聞いた。

ペールワン一族の墓にて
ペールワン一族の墓にて

大統領の暗殺未遂事件があった橋

 昨年10月1日、心不全のためにこの世を去った“燃える闘魂”アントニオ猪木。生前はさまざまな分野で挑戦を試みてきたが、そのうちのひとつに「闘魂外交」があった。今回は元側近として「闘魂外交」の一端を担ってきた猪木元気工場の宇田川強取締役に話を聞いた。(取材・文=“Show”大谷泰顕)

「猪木さんと一緒にいると、一般人とのギャップにズレが出てくるんですよ。まさにそれが『猪木の常識、世間の非常識』になるんでしょうけど……」

 猪木元気工場(IGF)の宇田川強取締役の言葉である。宇田川氏はアントニオ猪木の側近として、また、旧IGFの社員として2007~16年まで、国内での猪木関連のプロレスイベントの運営に関わっていたが、12年7月には中国の上海で大会を開催。これを皮切りに12月にパキスタン大会、14年8月には北朝鮮でも大会を開催した。なかでもパキスタン大会の印象が強く残っているという。

「パキスタンは猪木会長にとってはアクラム・ペールワンと闘った(1976年12月12日、カラチ・ナショナルスタジアム)場所でもあるし、アクラムの墓参りに行きたいと話していたこともありましたけど、最初はパキスンタンバザール(2012年3月、代々木公園)にご招待を受けて、そこで猪木会長がごあいさつをさせていただいて。その後の囲み取材で、『また、パキスタンで興行をやってほしい』という要望があると知って、猪木会長的は『面白えじゃねーか』くらいの感じだったと思います」

 その日はそれで終わり、後日またマスコミとそういう話になった時に、「よし、やるか」と完全にアントニオ猪木のスイッチが入る。

「我々としてもやるんだなーと思って、『(猪木)会長、これ、誰に担当してもらうのがよいでしょうかね?』って言ったら、『おめえに決まってるだろう』って。だから、私ですかぁ!? って感じでしたね」

 そこで宇田川氏は、まずは現地の状況を把握すべく視察に出かけたが、パキスタンは外務省の定める危険度MAPではレベル2(不要不急の渡航中止)、レベル3(渡航中止勧告)、レベル4(退避勧告)に相当する都市があり、世界でも有数の危険な国と認定されている。

「最初はそれも知らなかったんですけど、パキスタンは親日でもあるから大丈夫かなと。でも、まずはタイ航空でバンコク乗り換えで、首都のイスラマバードに向かったら、機内でスーツを着ていたのは私だけ。他の方はヒゲを生やして、イスラム教徒特有の白い服を着ていてね。ジャパニーズ? よく来たな、みたいな雰囲気がありましたね」

 その時は、現地に入ったのは夜中だったが、現地のコーディネーターが乗る車に同乗すると、とんでもない話が飛び出した。

「まずこれから通る、この橋で爆弾テロがあって、大統領の暗殺未遂事件がありまして……って説明されて。着いたばかりで、いきなりそんな話をします? みたいな(苦笑)」

 それでも無事にホテルの到着すると、明日の準備をしてから床に着く。

「とにかく明日も打ち合わせがあるし、早く寝ようと思ってベッドに入って寝ていたら、夜明けとともにコーランが流れるんです。日本だとよく夕方になると『夕焼け小焼け』のBGMが流れたりしますけど、雰囲気的にはああいう感じっていえばいいのかな」

建物の左端の部分、1〜3階が爆破されてしまったパキスタンのホテル
建物の左端の部分、1〜3階が爆破されてしまったパキスタンのホテル

爆破されて1~3階がないホテル

 イスラマバードから200キロ南下するとラホールが、そしてイスラマバードから100キロほど西に進んだ場所にあるのがペシャワールになる。

「道路にしてもアスファルトはテカテカ、土ぼこりは当たり前だし、ヤギも歩いているし。すごいところに来ちゃったなって思いましたよ」

 途中、スタジアムを含め、プロレスイベントの開催候補地を見て回ったが、とくにペシャワールは危険度レベル4(退去勧告)の最大危険地域だった。

「その段階ではまだ、そこまで危ない場所っていう認識がなくて。果てしなく車で走っていくと、建物がなくなって、寂しくなってきちゃったなーなんて思っていたら、ようやくペシャワールの競技場に着く、みたいな感じでしたね」

 ここまでにもさまざまな驚くべき会話やポイントを見聞きしたが、ペシャワールのホテルに着く際には、さらに驚かされた。

「ホテルの屋上に狙撃手がいるし、道路にも(テロ対策のために)障害物があって、真っすぐには進めないようになっているんですよ。だからジグザグにしか進めなくて。で、着いたのはその辺りでは一番の高級ホテルなんでしょうけど、ホテルの入口前でクルマが止まると、必ず車の周りを爆弾探知犬が一周する。それが終わると、ホテルの玄関にX線の荷物検査。よく空港にあるじゃないですか。ああいう荷物検査を受けて、問題がなければようやくホテル内に入れるんです。だから大丈夫なのかな? とんでもないところに来ちゃったなって思いながら、ホテルに入るとネットがつながる環境でしたから、ペシャワールを検索したら『タリバンがウロチョロしている』と書かれていて。えー! みたいな感じでした」

 考えれば、数十キロ先には紛争地アフガニスタンがある。日本で例えると、東京を拠点にしていたら、横浜の先で紛争をしている感覚といえばいいのか。

「結果的に我々は日本に無事に帰って来れたから大丈夫だったんですけど、我々が向こうで大会を開催する前後は、平気で自爆テロのニュースをやっていましたからね。だってまずホテルのカタチがイビツなんですよ」

 実は12年12月のパキスタン大会には筆者も同行したため、宇田川氏と行動をともにした。その際の写真を掲載するので確認してもらえれば幸いだが、6階建てのホテルの1~3階が一部ないのだ。現地の方の話では「5年前の爆発事件で爆破された」と言っていた。

「現地では結構、物騒な話を普通に言うんですよ。ああ、あそこはアメリカ人が来た時に自爆テロがあったホテルで……とかってね。大会には選手たちと一緒に行くわけですけど、ある選手からは『金縛りに遭った』とも聞きましたしね」

 また、プロレスイベントなのでリングは必須になるが、これを輸送するのもひと手間かかった。

「リングにしても、当初は船で送ろうとしたんですけど、それだと間に合わないから飛行機で送ったんですよ。でも、パキスタン航空ではリングが大きすぎて入らなくて、結局、エミレーツ航空のデカい飛行機でドバイまで持って行って、そこからパキスタンに送って。普通は通関とかあるんでしょうけど、そんなのはすっ飛ばして。すぐに最初の開催地ラホールに持って行ってもらいましたね」

 そういえば大会前日には一部の選手、取材陣も駆り出され、関係者を含め、翌日に闘うためのリングを作ったことを思い出した。

「ちゃんと水平をとっているのかもわからないから、コップに水をくんできてリングの上に置いて、最低限の水平にはしましたよ」

試算はしてみたキューバ大会&南極大会

 パキスタンでは、イスラマバードの日本人学校にも訪問した。

「あそこは大使館とかもあって、一番セキュリティーも強固なエリアなんですよ。表現はよくないけど、刑務所みたいに高い塀に囲まれていて、塀の上には有刺鉄線が張られていて、電流も流れているとか。ちょっとやそっとじゃ侵入できないような最善のセキュリティでした。だから、あそこのエリアに入るのも大変なんです。全員、誰が誰なのか分かるようにパスポートを確認したりしてね」

 実際、巨大なコンテナがいくつも積まれており、自爆テロくらいではビクともしない雰囲気があった。

「現地の子どもたちと校庭でリレーをやったりしましたね。最初に一人で視察に行った時には、現地で夕陽が沈むのを見ながら、いろんなことを感じられたり。たぶん猪木会長は、そうやって世界中で夕陽を見ながら、いろんなことを考えていたんだろうなって思いましたよ」

 パキスタンに関して言えば、同行取材した筆者が目撃したのは、いまだにアントニオ猪木人気は根強く、イスラマバードの空港では何十台のテレビカメラに出迎えられるなど、大歓迎を受けていた。また、アクラム・ペールワンの墓参りに出向いた際には、アントニオ猪木をひと目見ようと、その土地いったいの群衆が集結。どれがアクラムの墓なのか、少なくとも筆者には見当がつかないほどの混乱ぶりだった。それだけパキスタンにとってアントニオ猪木の存在は、何年たっても非常に大きなものであることが伝わってきた。

 さらに、IGFは2014年7月には北朝鮮大会も開催した。

「北朝鮮に関しても、猪木会長から『決まったぞ。日程を決めてきたから』って言われましたけど、パキスタン大会に比べれば楽でしたよ。だってちゃんとした体育館、控室もあったし、お願いすればいろいろと用意はしてくれたし、演出にしてもムービングライトもありましたからね。パキスタンに比べれば、雲泥の差くらいはありましたね」

 逆に、計画はしたものの、実現できなかったこともある。

「キューバ大会もやりたかったですけどね。(グレコローマンレスリング五輪4連覇中の)ミハイン・ロペスもやりたいと言ってくれていましたし。他には南極大会もやろうとしたから、いろいろ調べましたよ。南極に入るためには26か国の同意が必要で、持ち込めるものにも制限があるとか……」

 南極での大会を開催は非常にハードルが高く、代案として南極を航行するクルーズ船にリングを組むことも考えた。

「それを南極大会と呼べるかは別として、いろんなことを考えましたし、試算もしましたね。その場合はニュージーランドのほうから行くのか、アルゼンチンの一番南のほうにあるブエノスアイレスのほうから行ったほうがいいのか、とか。僕も20代だったし、もう少しキャリアを重ねていれば、もうちょっとやりたいことをやれたんでしょうけど……」

 ちなみにアントニオ猪木は、亡くなってから従四位と旭日中綬章という勲章を贈られた(叙勲の日は、さかのぼって生前に設定される)。しかしそれよりももっと前にパキスタン、北朝鮮、キューバ、ブラジルなど、世界各国から勲章を贈られている。「もらってないのは日本だけ」と生前のアントニオ猪木本人から聞いたこともあるが、それは、まさに「闘魂外交」が果たした功績をたたえられた証拠でもあった。

 最後に、宇田川氏は当時を振り返りながらこう話した。

「猪木会長はイベント実現するために、いろいろなスポンサーにお声がけしたり、自身も細かいお仕事もされてました。まさに、アントニオ猪木が営業マンであり、広報であり、プロデューサーでしたね。しかもイベントは自分自身のためというよりも相手側のことを思ってやっていたんです。猪木会長がやりたいことをいくつかなえられたかっていうと、そんなに数多くはないんですけど、それでも自分が多少なりとも力になれたのだとしたら、それはありがたいことだと思うし、いい経験をさせてもらったなあって思っていますね」

(一部敬称略)

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