「骨が見える怪我でも『やる!』って」 北斗晶のかつての付き人・伊藤薫が明かす“鉄人伝説”

すでにキャリア30年以上を誇るLEGENDの域にある女子プロレスラー・伊藤薫。猛暑の今夏、“冷酷の悪魔”中島安里紗を下し、SEAdLINNNG(シードリング)シングル新王者に輝いた“太陽神”Sareeeの師匠として独自の存在感を発揮しているが、改めて伊藤に、自身が体感してきた女子プロレス激動の時代を振り返ってもらった。

8月27日には伊藤薫(左)とSareeeとの師弟対決も【写真:(C)伊藤道場】
8月27日には伊藤薫(左)とSareeeとの師弟対決も【写真:(C)伊藤道場】

北斗VS神取のケンカマッチ

 すでにキャリア30年以上を誇るLEGENDの域にある女子プロレスラー・伊藤薫。猛暑の今夏、“冷酷の悪魔”中島安里紗を下し、SEAdLINNNG(シードリング)シングル新王者に輝いた“太陽神”Sareeeの師匠として独自の存在感を発揮しているが、改めて伊藤に、自身が体感してきた女子プロレス激動の時代を振り返ってもらった。(取材・文=“Show”大谷泰顕)

 令和の今、日本マット界で最も熱いといわれる女子プロレスだが、過去には何度も女子プロレスが日本マット界を牽引している時代があった。

 例えば、1990年代にあった団体対抗戦には、伝説の一夜が存在する。

 1993年4月2日、横浜アリーナで開催された女子プロレス夢のオールスター戦「ALL STAR DREAMSLAM~全女イズ夢★爆発」は、全日本女子プロレス創立25周年記念のビッグ・イベントとして、全女・JWP・LLPW・FMWの4団体が史上初めて一堂に介した大会だった。

 驚くのは、全試合が終わった時間が、翌3日の午前0時を回った終電後になったため、最寄り駅である新横浜駅周辺に帰れなくなったファンが集結。始発が走り出す早朝まで「帰宅難民」であふれ返った。

「ああいう時は会場を3日間、借りるんです。その場合は前の日から設営するけど、2日しか借りられなかった時は当日の朝にリングを作りに行って、次の日の朝に撤収すればいいみたいな。たしかあの時は全部で何試合あったのかな(※全12試合+オープニング・セレモニー)。ファンの人たちも帰れなくて。その辺にあった自転車がたくさん盗まれて。いっぱい盗難があったらしくて。全女にものすごい数のクレームの電話がかかってきていましたね」

 その大会の目玉カードが北斗晶VS神取忍による「デンジャラスクイーン決定戦ー横浜極限ー」だった。

「自分は宇野(久子=当時の北斗晶の本名)さんの付き人をやっていたけど、額を何十針も縫うくらいに大きく切って。大変でしたね。本当のケンカマッチでした。その当時は神取さんが、プロレスラーっていう感じじゃなかった。格闘家のままプロレスラーになっている感じだったから、北斗さんとの対比で注目されていましたね」

 北斗VS神取戦の頃、伊藤が北斗の付き人だったのであれば、北斗の持つ独特のすごみに震え上がったのではないだろうか。

「普段は本当に優しい方なんですよ。でも試合になるとすごいですよね。スターだと思ったし、プロだなあって思いましたね、宇野さんは。本当にプロ意識がすごかった。例えばプランチャを飛んだらフェンスに足が当たって、骨が見えるくらいの怪我をされたんです。だからみんなで試合を止めたんですけど、泣きながら『やる!』って聞かないんですよ。それを自分たちが押さえて……とかってありましたもんね」

同期の伊藤薫(左)と長谷川咲恵【写真:本人提供】
同期の伊藤薫(左)と長谷川咲恵【写真:本人提供】

「伊藤さんが殺される!」…デスマッチの記憶

 実を言うと伊藤は「私は一番最初に北斗さんの付き人をやって、その次、アジャ・コング様なんですよ」と話した。であれば、北斗とアジャの違いはどんなところになるのか?

「北斗さんは完全にプロレスラーですよね。アジャ様はタレントとしての仕事もあったから、一番忙しい時期に365日、ずーっと一緒にいましたね。例えば青森で試合して、終わったら青森駅までタクシーで行って、夜行列車で東京に帰ってきて、その日、羽田空港でスカイダイビングの仕事をして、そこから飛行機で青森まで戻って会場で試合とか。そんなのはしょっちゅうでした」

 ちなみにアジャにも伝説的な試合がいくつもあるが、伊藤の愛弟子であるSareeeはアジャに、見事なまでの大流血をさせられている(2019年2月、新木場1stリング)。

「Sareeeは一番最初に流血戦をしたのが堀田(祐美子)さんとの試合なんですけど、その時なんて『痛くて泣いちゃいましたー』ってベソをかいてた子が、アジャ様との試合では、あれだけ流血しながら最後までリングに立っているんだからすごいですよ」

 この話をSareeeに確認すると、「全然痛くなかったですね、あの時は。でも、動脈が切れてますからね。その辺いっぱい血の海でした。お客さんに血が飛んじゃうし」と話していたが、伊藤いわく、「あれだけの流血だったら、一歩間違えたら死んでいてもおかしくないですよ」という壮絶なものだった。

 とはいえ、女子プロレスラーに怪我は付きもの。もちろん伊藤にも怪我にまつわる話がある。

「自分も、手がおかしいと思った時があって。力が全然入らなくて。そしたら手首がボコッて腫れてきて。折れちゃったなっていう。その試合は負けましたけど、最後まで試合はやりましたね」

 また、伊藤にも「デスマッチもやっているから結構ありましたね」と、流血を伴う伝説的な試合が残っている。とくに堀田戦(2001年12月16日 川崎市体育館)では、「伊藤さんが殺される!」とリング下にいた後輩たちが泣き叫んだという。

 当時の映像を確認すると、金網&敗者髪切りデスマッチ 『Final Conclusion』として実施された一戦は、脚立や消化器、チェーンによる首絞めまで行われる、壮絶というより凄惨な試合展開だった。

 それでも最後はリング上に横になった堀田に、伊藤がフェンス金網最上段から、まさかのダイビングフットスタンプを敢行。その後、伊藤がフェンスの外にエスケープし、ルールにより45分以上の“死闘”に終止符を打った。

団体対抗戦の最中になぜか格闘技戦

「ワールド女子プロレス・ディアナでも堀田さんとデスマッチをやったんです(2018年5月、後楽園ホール)けど、その試合は、頭がパックリ割れて血だらけになったんですよ。そしたら試合後にSareeeが、ずーっと『大丈夫ですか! 大丈夫ですか! 大丈夫ですか! 大丈夫ですか! 大丈夫ですか!』って何度も聞いてくるから、『私のことはいいから、早く今やっている試合のセコンドに行って』って行かせたりしましたね。そんな子が今や、あれだけの(中島と)すごい試合をしちゃうんですもんね」

 そう言って愛弟子・Sareeeの成長を喜んだ伊藤。それもこれも、Sareeeが全女時代の伊藤たちがリング上で繰り広げていた、激しく“闘い”のあるプロレスを望んだ結果だった。
 それを踏まえて、伊藤は当時の自分のたどってきた道を回想する。

「全女の時は毎日が戦場でしたけど、余計なことを考える時間もなかったので。毎日充実してましたよ。毎日バスに乗って、スケジュール表にあった体育館の名前を一個一個消していくのがすごく楽しみでしたね」

 伊藤は懐かしそうに当時を振り返ったが、それを聞いて、愛弟子のSareeeが「うらやましいなあと思います。大変だと思いますけど、そうやって試合が用意されてて。自分たちの世代はそういうことを経験していないので、すごくいいなあと思いました」と話した。

「全女の人たちだったら、今の子たちが10年でやる分の試合数が、2、3年で終わっちゃいますよ。だから全女にいた選手の試合数を、今の子たちが越すことはできないと思いますね。今、現役でいるの全女出身の女子プロレスラーは、アジャ様、私、渡辺智子、堀田さん、ジャガー横田さん……、その人たちの試合数を今の子たちが上回ることはできないと思いますね」

 ところで、冒頭に書き記した、新横浜駅周辺に「帰宅難民」があふれ返った、横浜アリーナ大会。伊藤は第1試合で同期の長谷川咲恵と組み、プラム麻里子&福岡晶のJWP勢と試合をしている。

「あんまり覚えてないですね。ただ、その試合はよかったけど、その頃はよく格闘技戦をやらされて。東京ドーム(94年11月)でも両国国技館(93年12月)でも格闘技戦なんですよ。だからプロレスラーになったのにグローブを着けて、なんでなんだろうって思ってましたね。しかも自分、柔道出身なんですよ。なのになんでグローブマッチなんだろうってすごく嫌だった記憶があります」

 そう言って苦笑しながら当時を振り返った伊藤。令和の今、その当時とはまた違った客層に支えられながら女子プロレスが脚光を浴びている。これを機に、かつての女子プロレスが熱かった“歴史”にまで興味を持つファンをどれだけ増やせるのか。そこが一過性のブームで終わらせないための鍵になってくる気がする。

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