デビュー55年のCREATION竹田和夫、LAのすし店で分かった日米“音楽の違い”

ロックギタリストの竹田和夫が、プロデビューから55年目を迎えた。バンド・CREATIONを結成し、日本ロック黎明期の1970年代からは海外でも活動。プロレスファンにおなじみの『スピニング・トー・ホールド』、ヒット曲の『ロンリー・ハート』、などを手掛けてきた。そして、感じてきた音楽における日米の差とは。恩師・内田裕也さん(享年79)とのエピソードも語った。

プロデビューから55年目を迎えた竹田和夫【写真提供:ユニバーサルミュージック】
プロデビューから55年目を迎えた竹田和夫【写真提供:ユニバーサルミュージック】

ギターを始めて3年でプロに、内田裕也さんと二人三脚の時期も

 ロックギタリストの竹田和夫が、プロデビューから55年目を迎えた。バンド・CREATIONを結成し、日本ロック黎明期の1970年代からは海外でも活動。プロレスファンにおなじみの『スピニング・トー・ホールド』、ヒット曲の『ロンリー・ハート』、などを手掛けてきた。そして、感じてきた音楽における日米の差とは。恩師・内田裕也さん(享年79)とのエピソードも語った。(取材・文=福嶋剛)

 竹田は日本人の単独アーティストとして最初に日本武道館公演を成功させた。率いたCREATIONでは、日本のロックグループとして初めて本格的な全米ツアーを行った。東京で生まれ育ち、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』に出てくるような風景を見てきたという。

「プロレスが大好きで力道山の試合は欠かさず見ていました。海外の探偵ドラマ『バークにまかせろ』に影響され、将来はLA(ロサンゼルス)で探偵になりたいと思っていましたが、まさかミュージシャンとしてLAに住むとは。想像もしてなかったですね(笑)」

 ギターは中2から始め、最初の1本は新聞配達のアルバイトをして手に入れた。

「音楽は姉や母の影響で、姉が持っていたレイ・チャールズ、ジーン・ビンセント、アート・ブレイキーのレコードを聴いていました。その後、ビートルズやベンチャーズが出て来ました。日本にもエレキブームがやってきて、僕も他の子どもたちと同じようにギターに熱中しました。本当はドラムもやりたかったけど、高かったから友達から中古のギターを買ったんです。新聞配達のバイト代が1か月3000円の時代に1万5000円だったから、今だと10万円以上の価値だったのかな。アンプの方が高くて3万円しました。初めてアンプを通して弾いたら、“ベンチャーズの音”が出てきて気持ち良かった。それから、朝から晩までギター漬けの毎日。練習スタジオなんてない時代だから、近所の空き地に電源コードを引っ張って、外でバンドの練習をしていました」

 ギターを始めて3年目。竹田はプロデビューを果たした。

「最初はうまい仲間に教えてもらいながら覚えていったけど、高校に上がるとどんな曲もすぐにコピーできるようになっていました。ライブハウスというのがなかった時代で、演奏できるのはジャズ喫茶かゴーゴークラブと呼ばれるディスコでした。僕たちはゴーゴーに出ていましたが、とにかく敷居が高くて何度もオーディションに落とされました。それで、ライブのブッキングをしてくれる小さな事務所に所属して、蒲田、渋谷、恵比寿、浅草、厚木基地とかいろんな場所で演奏しました。その後、『Blues Creation』というバンドを結成したときにレコード会社の人の目に留まり、デビューが決まりました」

 当時16歳の竹田にとって、テレビや雑誌の取材など見るもの全てが新鮮だった。

「初めてのレコーディングでレコードが完成して、音楽評論家が自分の作品にライナーノーツを書いてくれたのを見て、『新しい人生の1ページが開いた』と実感しました。1969年に今のロックフェスの原点みたいなイベント『第1回日本ロックフェスティバル』が新宿厚生年金会館で開催。内田裕也とフラワーズ、ザ・ゴールデン・カップス、エディ藩グループといった先輩バンドが参加する中で、Blues Creationも参加しました。デビューしたばかりだったので、機材がしょぼくて演奏している音が全く聴こえなくて大変でした」

 Blues Creationが解散し、新たにCREATIONを結成した竹田は75年に内田さんのプロデュースでファースト・アルバム『クリエイション』を発表した。その後の作品も、内田さんとの二人三脚で制作した。

「裕也さんは、若い世代だと数々の武勇伝がある怖い人とか、見た目が謎な人というイメージかもしれませんが、日本のロックシーンにおいてとても重要な人で、『欧米と肩を並べるレベルまで、日本のロックを押し上げないといけない』という並々ならぬ信念を最期まで持ち続けていました。裕也さんは60年代に誰よりも早くアメリカとイギリスのロックシーンを肌で感じ、『どうやったら日本で海外の音楽を根付かせることができるのか』。そんなことを先頭に立って考えていました。僕もCREATIONを通してさまざまな実験をさせてもらいました」

 竹田自身も洋楽風のサウンドや人目をひく斬新なレコードジャケットまで、トータルで魅せることを考えていたという。

「日本と海外。どちらにも通じる“ロックの正解”を探そうと試行錯誤したけど、最後までその答えは見つからなかった。作品としては、欧米の人たちと肩を並べる自信があるものを完成させたのですが、こっちでも向こうでも『違う』と言われてしまった。でも、そういう積み重ねをしていかないと気が付くことができなかった時代なんです。あれから僕もアメリカに拠点を移し、活動していくうちに『これでいいんだ』っていう部分がようやく見つかったような気がします」

55年休むことなく音楽活動を続けている【写真:ENCOUNT編集部】
55年休むことなく音楽活動を続けている【写真:ENCOUNT編集部】

71歳、今も米国で試行錯誤も「プレーすることが面白い」「引退はありません」

 竹田は、プロデューサーのフェリックス・パパラルディ氏に気に入られた。エリック・クラプトンが在籍したバンド・クリームを担当していた人物で、米国でCREATIONのセカンドアルバムが制作できるに至った。『スピニング・トー・ホールド』はこのレコーディング中に誕生したと言われている。幼少期からプロレスファンの竹田がちゃめっ気たっぷりに曲名を付けた。さらに海外での大型ツアーも実現し、76年にKiss、イエス、ジョニー・ウインターらと全米を回り、77年にはフリートウッド・マックやサンタナらとオーストラリアを回った。

「アジア人差別は今よりもひどかった。オーストラリアで打ち上げ会場に行ったら、関係者にドレスコード違反を理由に『アジア人はお断り』で、店から締め出されました。LAのステージでは、僕らを見ていた客が『お前らを撃ち殺してやる』と怒鳴りこんできました。あわてて店のオーナーが、ショットガンを持ちながら裏口から逃がしてくれたり、いろいろありましたね」

 その後も竹田は海外での演奏活動を続け、97年にLAに移住。念願をかなえた。

「プロ野球選手が『MLBでプレーしたい』というのと同じで、自分の実力を試してみたくて、昔から『アメリカでやりたい』と思っていました。LAに住んで26年たちましたが、ギターに関しては、国境はありませんでした。テクニックじゃなくてフィーリング(感性)が大切で、イタリア人であれ、アジア人であれ、お客と共感できる気持ちがあれば、どこで演奏してもお客に響くことが分かりました。でも、楽曲制作となると話は別でした」

 それは、内田さんと試行錯誤しながら探してきた“答”にもつながる。

「単純な話、食べ物の味覚と同じです。おいしいマグロが出てきたら、僕たちは醤油で食べるのが一番うまい食べ方だと思っているのに、LAのすし屋では『甘ダレを付けて食べる方がおいしい』と言われました。それは音楽も同じで、むしろマグロのすしはOKなんだから、日本の音楽を向こうでやったって良いんですよ。ザ・ローリングストーンズだって、テネシー州に行くと、ガース・ブルックスというカントリーシンガーには勝てませんからね。そこには、誰がどうやっても変えられない土壌や歴史があり、『個人の価値観で良し悪しを決められるものじゃない』と分かりました。きっとあの頃、裕也さんはマグロに付ける甘ダレを先頭切って探していたんですね」

 では、竹田はどのようにして米国にアジャストしていったのか。

「移住したばかりの頃は試行錯誤の連続で、『一番早く受け入れられるジャンルを突破口にしていこう』と思いました。初めはジャズ系の音楽で受け入れてもらいましたが、本職のロックミュージシャンとして、どういう風に認めてもらえるのか。それは今でも試行錯誤で、きっとこれからも模索していくと思います」

 現在もLAを拠点にしつつ、年に1度は日本でも全国ツアーを回る。71歳の今、『日本に帰って生活する予定は』と聞くと、竹田は「NO」と答えた。

「アメリカに対してのこだわりはないけれど、日本の仲間と演奏するのと同じくらいアメリカの仲間とプレーすることが面白いんです。演奏1つ1つに『ナイス』とか『グレート!』とか褒め合って楽しいです。お客さんも、良い演奏をすると素直に喜んでくれますし。日本人だからという垣根はそこにはないんです」

 デビューから55年間、ほとんど休むことなく音楽活動を続けてきた。偉大な先人のブルースギタリストたちに倣い、『最後までギターを弾き続けたい』とも言った。

「体が動かなくなってきても、技術より感性で弾くようになってくるから、どんどん無駄なものが削ぎ落され、シンプルに良い音色や良いメロディーに惹かれていくんです。ブルースで使う音数は限られているけど、組み合わせは無限にあってそこに魅力を感じますし、これからもソウルフルなフィーリングを大切にしながら弾き続けたいです。やっぱり、ギターは面白いですよ。僕たちには引退はありません」

□竹田和夫(たけだ・かずお)1952年3月11日、東京都生まれ。13歳からギターを始め、16歳でプロデビュー。69年1月1日、日本のブルースロックバンドの草分け、BLUES CREATIONを結成。75年、内田裕也さんプロデュースによるCREATIONのファースト・アルバム『クリエイション』発表した。ヒット楽曲は『スピニング・トー・ホールド』(77年)、『トーキョー・サリー』(77年)、『ロンリー・ハート』(81年)など。97年3月、米国に移住。現在CREATIONとして初CD化を含む全11タイトルの紙ジャケ復刻盤をリリース中。

CREATION 公式HP:https://www.universal-music.co.jp/creation/
竹田和夫 公式HP:https://linktr.ee/BlueSkyMusic

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