【オヤジの仕事】ビートルズ初代ディレクター・高嶋弘之氏が明かす娘・高嶋ちさ子さんの意外な素顔

俳優・高嶋忠夫さんの弟だけあってダンディだ【写真:山田隆】
俳優・高嶋忠夫さんの弟だけあってダンディだ【写真:山田隆】

姉をいじめる男子にグーパンチのちさ子さんに「よぅやったな!」

 僕ら夫婦が“隠さない”という考えだったから、子供たちもオープン。長男はデートに行くようになると未知子を連れて行ったり、ちさ子も学校で“お楽しみ会”があると連れて行ったり、ウチに友達が遊びに来た時は友達に未知子を紹介したり。そんなちさ子や長男に、僕ら夫婦はすごく救われました。ちさ子の本名は未知子の「知」に、助けるという意味をもつ「佐」という字で「知佐子」と書くんです。だから、使命感をもったんでしょうね。

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 ちさ子は小学校に入ってすぐは「チビ」といじめられたんです。ところが、ちさ子はいじめた男の子たちの中から大将を見定めて、顔面グーパンチを食らわせた(笑)。それで自分がガキ大将になった。電車で未知子に「サル」とか言ってきた男の子に、顔面グーパンチ見舞ったこともあった。いじめてる男の子の親もそこにいるのに! なかなかやるよね(笑)。僕はそんなふうにガツンとやり返すちさ子に、心の中で「よぅやったな!」と思っていました。小さい頃から正義感が強かったんだ。

「ちさ子を毒舌だと全然思わない」

 よくみなさんから、ちさ子のことを「毒舌だ」と言われますけど、僕は毒舌だと全然思わない。普通のこと、本当のことを言っているだけ。世間並みの常識は必要だけど、言うべきことは言ったらいい。僕は長男に対しても、彼が中学生の時、イタズラが過ぎて夜中に呼び出しを食らったことがあったんですけど、僕は長男がいかにいい子か、と褒めまくった。それから長男はものすごい勉強するようになったんです。それまで「高校に行けるかな」と思ってたぐらいだったのに。親は絶対、子供の味方にならないといけないと思う。味方になれば、子供は親の信頼に応えようとするんだと思いましたね。

 ちさ子は好き放題しゃべっているように見えて、実はそうじゃないんですよ。事前にネタを考えている。よく家内に相談していたから。家内は「それいいんじゃない」「それは面白くない」って答えていました。陰ですっごく努力しているんですよ。バイオリンの練習もよくやってます。始めたのが6歳と、バイオリンを始めるには遅い年齢で最初はなかなか上手くならなかったから、ちさ子が小学校5年生の頃、僕は仕事を一緒にして親しくなったNHK交響楽団のコンサートマスターだった徳永二男さんに、「うちの娘に教えてやってくれませんか」とお願いしたんです。そうしたら徳永さんが受けてくださって、ちさ子はメキメキ上手くなった。基礎の“スケール(音階)”を何度も何度も繰り返して。それはもう必死で練習していました。

僕がちさ子にしてあげたこと

 大学を出て米国のイェール大学大学院に留学したんですけど、そのとき、僕はイェール大学に切々と、娘にバイオリンを学ばせてやりたい気持ちを訴える手紙を書いたんです。それが彼女の努力を後押ししたのもあったのか、ちさ子は奨学金をもらうことができた。僕がちさ子にしてあげたといったら、徳永さんに頼んであげたことと、その手紙を書いたことぐらいかな(笑)。あとは家内のおかげですね。ちさ子の稽古に毎回ついていって、先生の話をメモして復習させていましたから。

 ちさ子はバイオリニストとしてモノになったけど、それが大事なんじゃなくて、必死でやることが大事だと僕は思いますね。ちさ子は一生懸命生きている。僕に似ています(笑)。孫は目に入れても痛くない、とか言うけど、そんなことは思わない。自分の子供の方がずっとかわいい。だからといって、「結婚して寂しい」とは思わなかった。会えなくなるわけじゃないし、同じ地球上にいるんだし。子供や孫のことばかりにかまけているほど、僕はヒマじゃないからね(笑)!

□高嶋弘之 (たかしま・ひろゆき)1934年5月18日、神戸市生まれ。早稲田大学文学部卒業後、1959年、東京芝浦電気レコード事業部入社。ディレクターとしてビートルズを日本に紹介し、由紀さおり、黛ジュンをスターにした。1969年に退社し1970年、キャニオン・レコード取締役制作部長に。チャペル・インターソング社長、ロンドン・レコード代表取締役副社長、ポリドール(現・ユニバーサル)常務取締役制作・宣伝本部長を経て1991年、クラシック音楽を手がける高嶋音楽事務所設立。2020年3月、所属の双子のソプラノ歌手「山田姉妹」が4枚目のアルバム「私のお父さん」リリース。

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