野宮真貴の歩んだ40年 デビュー1年で契約解除も…あきらめなかった“歌うこと”

40thアルバム「New Beautiful」の配信がスタート【写真:荒川祐史】
40thアルバム「New Beautiful」の配信がスタート【写真:荒川祐史】

メジャーデビューからわずか1年で契約解除

 そして81年、ソロシンガーとしてビクターのフライングドッグからメジャーデビューすることになりました。うちは普通の家庭でしたから両親は私が歌手デビューすることはきっと不安だったと思います。実際にデビューする前にビクターのディレクターさんが、直接父に会いに行って説明をしてくれましたから。

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 デビューアルバムのプロデューサーはムーンライダーズの鈴木慶一さんでした。アルバムにはシンガーソングライターの佐藤奈々子さんに提供していただいた「ツイッギー・ツイッギー」という曲が入りました。のちにピチカートでカバーされ世界でも多くの人に知っていただいたあの曲です。ところが、アルバムは思うように売れなくて1年で契約解除。応援してくれていた両親には、「もう気が済んだでしょう」と諭されましたが、私自身は、まだまだこれで終わるわけにはいかないとう心境でしたね。

 慶一さんは、そんな私に手を差し伸べてくれて、CMソングのお仕事を紹介してくれました。おかげでなんとか音楽に携わる生活ができて、たくさんのCMソングを歌うことで歌も鍛えられ、今の野宮真貴の歌い方を習得することができたと思います。

 同時に「ポータブル・ロック」という3人組のニューウェーブ系のグループを組んで活動しました。グループの名付け親は慶一さんです。さまざまなミュージシャンとの交流もはじまりました。メンバーの鈴木(智文)くんと小西(康陽)さんが青山学院大学の音楽サークルの仲間で、ピチカートの2代目ヴォーカリストの田島貴男くんがいた時代のアルバム「女王陛下のピチカート・ファイヴ」のレコーディング現場を見学させてもらったんです。

 小西さんもポータブル・ロックの新しい演奏スタイルに影響を受けてピチカートを始めたと後にお話しされていましたが、そのレコーディング現場でコーラスをお願いされ、それがきっかけでツアーに参加したりと交流が始まりました。それから田島くんがオリジナル・ラブに専念するためピチカートを抜けたとき、小西さんから、「メインボーカルをやってほしい」と言われたんです。「絶対スターにしてみせるから!」と口説かれました(笑)。

 すでにピチカートの音楽性の素晴らしさはよく分かっていましたし、何よりも好きな衣装を着て良いと言われたので、ファッションの部分でも私のやりたいことが表現できると思って飛び込みました。ピチカートについてはその後はみなさんご存知の通り。国内でもヒットをして、それからアメリカのレーベルと契約して世界デビュー、ワールド・ツアーを行いました。90年代の新しい音楽シーン「渋谷系」の代表格とも言えるピチカート・ファイヴのアイコンとして、10年間私の役割をやりきったと思っています。

 振り返ってみると、10年おきに運命のプロデューサーが私の前に現れるんです。80年代は鈴木慶一さん、90年代は小西康陽さん、00年代は川勝正幸さん、そして現在は「渋谷系を歌う」シリーズからご一緒させて頂いているナイアガラ・レーベルの坂口修さん。とっても不思議ですよね。

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