心奪われた赤坂立体交差での高速ドリフト 71歳の元プロが心酔した“師の走り”

元プロラリードライバーの根本純さん(71)は激流のような人生を歩んできた。湘南の裕福な家に生まれたものの、父親の会社が倒産し、6畳一間に家族4人で暮らす少年時代を経験。17歳で免許を取り、ラリーの道に進むと、箱根の峠での猛特訓を経て、世界で最も過酷とされるパリ・ダカールラリー(現ダカールラリー)に日本人として初挑戦、トータル13回にわたって出場した。その後は文京区議会議員、国会議員の公設秘書などを経て、現在は旧車イベントなどを主催している。ぶっ飛んだ人生をひも解く連載の2回目。

根本純さん【写真:ENCOUNT編集部】
根本純さん【写真:ENCOUNT編集部】

レジェンドドライバー根本純さんのぶっ飛び人生

 元プロラリードライバーの根本純さん(71)は激流のような人生を歩んできた。湘南の裕福な家に生まれたものの、父親の会社が倒産し、6畳一間に家族4人で暮らす少年時代を経験。17歳で免許を取り、ラリーの道に進むと、箱根の峠での猛特訓を経て、世界で最も過酷とされるパリ・ダカールラリー(現ダカールラリー)に日本人として初挑戦、トータル13回にわたって出場した。その後は文京区議会議員、国会議員の公設秘書などを経て、現在は旧車イベントなどを主催している。ぶっ飛んだ人生をひも解く連載の2回目。(取材・構成=水沼一夫)

 19歳のとき、共立女子大の自動車部のキャプテンと出会って、ラリーを初体験した俺は「ラリーって面白いな」と思い、その後もおやじからコロナのマークIIを借りて、何回か参加しました。忘れられないのは初めてのナイトラリーですよね。日光の男体山に志津林道という林道があって、夜に走りながら峠を越えて、戦場ヶ原のほうに降りていったときです。ちょうど東から太陽が上がってきて、夜が明けていく林道を駆け下っていったんですよ。

「いや、ラリーってこんなに自然相手ですばらしいものなんだな…」。その光景がすごい焼き付いて、それでラリーにのめり込みましたね。今までスキーをやったり、バンドをやったり何やってもそれなりに楽しいんだけど、本格的にやろうとはならなかった。だけど、ラリーには本当にはまって、やり始めました。

 コロナじゃダメだったから、自分で初めて車も買いましたね。カリーナGTです。セリカはモダンでかっこいいんだけど、ちょっとラリー車風じゃないから、やっぱりカリーナにしようと言って、友達と2人で2台買いました。

 で、やってるうちに、今度はカローラのレビン/トレノが出て、23歳ぐらいのときに乗り換えました。それでレビンをどうしたかっていうと、これも俺らしいっていうか、“反骨のネモジュン”らしいところなんだけど、当時は暴走族が結構いて、それとラリーが一緒にされちゃうのがまずいという声があったんですよね。だから今後はラリー車は2色だけに限定しようとか、つまらない規則が当時のラリー連盟によってできたわけ。使える色は自由だったのに、そんなことを言い出したから、俺はだったら2色で一番目立つのやってやろうと思って、車を白黒のゼブラカラーにしたんですよ。

 ゼブラカラーのカローラレビンでラリーに出ていたら目立ちました。トヨタのワークス(チーム)のマネジャーが俺に声かけてくれて、「トヨタのワークスドライバーに永山政寛という人がいるんだけど、紹介してやるからお前練習来いよ」と言ってくれて、そこで縁が生まれたよね。

 俺がプロになるきっかけも作ってくれた。

 なぜかというと、永山さんと会って最初のとき、彼が運転するカローラレビンに乗せてくれたんだけど、赤坂の交差点に長い立体交差あるじゃない。あれを青山のほうからぶっ飛んでいって、あの立体交差の上でいきなり車を斜めにドリフトしながら抜けていったんだよね。かなりのスピードが出ていたと思う。もうヒエーみたいな世界だった。それで「先生、教えてください!」みたいになって、心酔してしまったんですよ。

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