早見優が明かす「花の82年組」への思いとは 「夏色のナンシー」で激変した周囲の評価

83年はシングル5枚とアルバム2枚をリリースするなど超多忙な毎日だったという【写真:荒川祐史】
83年はシングル5枚とアルバム2枚をリリースするなど超多忙な毎日だったという【写真:荒川祐史】

堀ちえみと「夏色」共演

 82年にデビューした同期のアイドルは「花の82年組」と呼ばれていて、「ライバル関係でしたか?」と聞かれることもあるんですが、私は全然そんなことはなかったです。むしろライバルと思う以前に「今日ちゃんと歌えるかな?」って毎日自分の心配ばかりでしたから(笑)。

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 デビューしてからしばらくは、同期と会うのはいつも「カックラキン大放送!!」(日本テレビ)や「8時だョ!全員集合」(TBS)といった収録現場でした。「夏色のナンシー」を歌っていた頃、堀ちえみちゃんは「夏色のダイアリー」を歌っていて、2人でよく「お互いに“夏色”だね」なんて笑いながら共演していたことを覚えています。

 83年はシングル5枚(「あの頃にもう一度」、「夏色のナンシー」、「渚のライオン」、「ラッキィ・リップス」、「抱いてマイ・ラブ」)とアルバムを2枚(「LANAI」、「COLORFUL BOX」)をリリースしました。振り返るとすごい数をリリースしていたんですね。「夏色のナンシー」の3か月後に「渚のライオン」が発売されて、「今日からライオンに変わるよ」って言われたときは、「もうナンシーは歌えなくなるんだ……」ってちょっと寂しかった思い出があります。

 あの頃、今でも忘れなれない出来事は、「COLORFUL BOX」のレコーディング中に風邪を引いてしまったんです。最悪の体調だったので「なんとかスケジュールをずらしていただけませんか?」とお願いましたが、後ろの予定が詰まっていて、泣く泣くそのまま歌入れをしました。あのとき、もっと歌の練習しておけばよかったって今でもジャケットを見ると悔しさがよみがえります。

 その年、初めて紅白歌合戦に出場しました。当時ハワイでは唯一、紅白歌合戦だけがリアルタイムに近い1週間遅れで放送していたので、ようやく祖母と母に歌っている姿を見せられた瞬間でした。でも紅白が終わったらその翌日にコマーシャル撮影でハワイに帰ったんですよ。同時に写真集の撮影や雑誌の取材もあって大忙しでしたが、久しぶりに家族や友人と再会して、ゆっくり話ができました。

 年が明けて84年はコンサートツアーを行いました。事務所の隣にあった喫茶店で舞台監督さんと、「車のヘッドライトみたいな舞台を作ってスポーティーなライブをやろう」と言いながらいろいろとアイデアを一緒に出し合いました。「何を歌いたい?」と聞かれて「大好きな洋楽をたくさん歌いたい」って言ったらすぐに却下されました(笑)。かわいい衣装もたくさん作っていただいて夜の11時とか12時からデザイナーさんと衣装合わせを始めたりしました。あの頃は本当に寝るひまがなくて、乗り物とか揺れるものがあればすぐに寝られましたよ。

 そんな84年と85年のコンサートがDVDとCDで復刻されました。当時はレーザーディスクとカセットテープで発売されていて……きっと若い人はそういったメディアの存在さえ分からないですよね(笑)。あの頃、私はちょうど高校を卒業するタイミングで、大学に行きたくて受験勉強も必死でした。振り返るとあの時代の記憶ってまるで動画の超早送り再生みたいな、そんな目まぐるしい毎日でしたね。でも本当に楽しかったんです。

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