高校浪人、中退、100本超のオーディション落選… 「泣き歌の貴公子」林部智史の挫折人生

哀愁漂う歌声から「泣き歌の貴公子」と呼ばれる歌手の林部智史(33)が8日、27歳で歌手デビューに至るまでの道のりを語った。同日、都内で行われたニッポン放送「森田健作 青春の勲章はくじけない心」(月曜午後6時20分)とFM NACK5「森田健作 青春もぎたて、朝一番!」(日曜午前5時30分)の収録に参加した。

歌手デビューまでの歩みを語った林部智史(手前)。後列は左から西村知美、森田健作
歌手デビューまでの歩みを語った林部智史(手前)。後列は左から西村知美、森田健作

歌手林部智史が森田健作の2番組に出演

 哀愁漂う歌声から「泣き歌の貴公子」と呼ばれる歌手の林部智史(33)が8日、27歳で歌手デビューに至るまでの道のりを語った。同日、都内で行われたニッポン放送「森田健作 青春の勲章はくじけない心」(月曜午後6時20分)とFM NACK5「森田健作 青春もぎたて、朝一番!」(日曜午前5時30分)の収録に参加した。

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 その道は、挫折の繰り返しだった。山形県新庄市出身で、バスケットボールの強豪、山形南高を目指すも受験で失敗。「私立に行くには学費が気になった」こともあり、高校浪人の末に同校に入学して全国出場も果たした。しかし、「プロになれるレベルにない」と自覚。母親の勧めで看護師学校に入るも、人の死に直面することも踏まえて「自分には向いていない」と判断し、中退に至った。そして、全国を転々とする住み込みのアルバイト生活を開始。北海道の礼文島にあるリゾートホテルで働いていた時に、同僚から「その歌声で歌手にならないのはおかしい」と何度も言われ、歌手を志したという。

「ずっと、『無理だよ』と言ってきたのですが、思えば、歌はバスケットと同じくらいに好きで、高校浪人時代にも体を動かした後、路上でよく歌っていました」

 20代前半になっていた林部は、礼文島からEXILEの男性ボーカルオーディションを受けに上京し、「20秒歌って」不合格。その後、音楽スクールに入学。月6本ペースで計100本超のオーディションを受けても、デビューのきっかけはつかめなかった。同スクールは首席で卒業したが、夢をあきらめてディズニーシーで勤務。そんなある日、スクールを通じて、オファーがあったテレビ東京「THEカラオケ★バトル」に出演。なかなか優勝には届かなかったが、努力の末に15年から2年連続で年間王者に。

 16年2月、「あいたい」でデビュー。同曲は「今、最も泣ける歌」と評判になり、日本レコード大賞新人賞を受賞した。その後、林部は叙情曲のカバーアルバムもリリース。パーソナリティーの森田健作が「ぐ~っと心にしみる歌声、(名曲の)『雪が降る』も歌ってほしい」とリクエストし、林部は「それは、(レコード会社の)社長にも言われています。僕は森田さんの『さらば涙と言おう』も歌いたいと思っています」。森田は「いや、(林部は)うますぎてそれは困る」と冗談で返す一幕もあった。

 歌声は、年内で歌手活動引退を予定しているシンガーソングライター小椋佳(78)にも認められている。小椋が21年1月、最後のアルバム「もういいかい」を発売すると、林部は小椋が8曲を書き下ろした楽曲を収録したアルバム「まあだだよ」をリリース。レコード会社は違うが、ジャケット写真のイメージは連動している。

 林部は収録後、「小椋さんとご一緒できるなんて、デビュー前には考えられなかったのです。過去に書かれた日記を奥様に朗読してもらい、それを基に歌詞曲作りをされていることなど、見習う点がたくさんあります。いつかその境地にいきたいです」などと語った。東大卒、元エリート銀行員だった小椋とは45歳差。歩みは違えど、林部は小椋の背中を追っていく。

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