「その時、音楽シーンが動いた #1」筒美京平、稀代のヒットメーカーの幕開け 勝負をかけた「ブルー・ライト・ヨコハマ」

音楽シーンのターニングポイントとなった出来事の日付を「その時」と定義し、そこに至るまでの状況やその後に与えた影響などを検証するコラム「その時、音楽シーンが動いた」。第1回は稀代の作/編曲家・筒美京平が歌謡界の頂点に立った瞬間を取り上げたい。(敬称略)

「ブルー・ライト・ヨコハマ」いしだあゆみ
「ブルー・ライト・ヨコハマ」いしだあゆみ

1969年(昭和44年)2月10日「ブルー・ライト・ヨコハマ」がオリコン1位を獲得

 音楽シーンのターニングポイントとなった出来事の日付を「その時」と定義し、そこに至るまでの状況やその後に与えた影響などを検証するコラム「その時、音楽シーンが動いた」。第1回は稀代の作/編曲家・筒美京平が歌謡界の頂点に立った瞬間を取り上げたい。(敬称略)

 作曲したシングルの総セールス7千560万枚(歴代1位)。オリコンTOP10入りは209作(うち3作は12インチ盤とピクチャー盤/歴代1位)で、1位獲得は39作(歴代2位)。名実ともに日本を代表するヒットメーカー・筒美の訃報が10月12日に届いた。

 それから約1か月半。傑出した才能と、日本の音楽界に残した多大なる功績はすでにさまざまなメディアで検証・分析されているが、かねがね「職業作家は自分の好きな音楽を作るのではなく、ヒット商品を作ることが使命」と語っていた筒美が初めてチャートの1位を獲得したのは1969年2月10日のこと。楽曲はいしだあゆみに提供した「ブルー・ライト・ヨコハマ」であった。

 その経緯を検証する前にまずは不世出の音楽家の来歴を振り返っておこう。40年、東京・牛込区(現在の新宿区神楽坂)に生まれた筒美は幼少期から海外の音楽に親しみ、クラシックのピアニストを志すが、青山学院大学在学中にジャズに傾倒。卒業後は日本グラモフォン(現ユニバーサルミュージック)に入社し、洋楽ディレクターとしてヒットの感性を養う一方、作曲家・すぎやまこういちに師事し、作曲と編曲を学ぶ。

 作曲家デビューはビートルズが来日した66年。日本ではその影響を受けたGS(グループサウンズ)がブームとなり、洋楽的なセンスを持ち合わせた新しい作家が活躍を始める。レコード会社の専属作家制度が崩れたのもこの時期で、チャートの上位には、村井邦彦、鈴木邦彦、井上忠夫(井上大輔)、橋本淳、なかにし礼、阿久悠など、フリーの作曲家・作詞家が続々と進出する。67年にグラモフォンを退社し、職業作家となった筒美もその1人だった。

 出世作はGSバンドのヴィレッジ・シンガーズに提供した「バラ色の雲」(67年)で、作詞は大学の先輩にあたる橋本淳、ディレクターは日本コロムビアの泉明良。橋本と泉は「ブルー・シャトウ」(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ/作曲:井上忠夫)で67年の日本レコード大賞を獲得していたが、その2人が筒美と組んだのが、いしだあゆみプロジェクトである。

 64年に16歳で歌手デビューしたいしだは大きなヒットに恵まれず、68年にビクターからコロムビアに移籍。20歳を迎えたこともあり、新天地で再スタートを切る。第1弾シングルの「太陽は泣いている」は、泉が手がけた和製ポップスの先駆け的作品「涙の太陽」(65年/エミー・ジャクソン)に連なるリズムセクションを強調したサウンドでオリコン18位をマーク。まずまずの結果に手応えを感じた3人はラテン歌謡風の第2弾「ふたりだけの城」を挟んで、3作目で勝負をかける。それが68年12月25日に発売された「ブルー・ライト・ヨコハマ」だった。

 橋本は後年、港の見える丘公園(横浜)から見える夜景と、フランスのカンヌで見た夜景を重ね合わせたと述懐しているが、当時の日本は高度経済成長の真っ只中。国力の指標となるGNPは68年に旧・西ドイツを抜いて世界第2位となり、地方から都市部への人口流出が加速していた。「歌は世につれ」というが、都会的なムードと多幸感にあふれた歌詞は“昭和元禄”ともいわれた当時の空気を反映していたといえるだろう。

 その詞に筒美は日本人が好む哀愁を帯びたメロディーを乗せ、編曲も自身が担当。GS風のビートの効いたリズムセクションをベースにしたゴージャスなオーケストレーションは、それまでの歌謡曲には見られない斬新なサウンドであったが、そこにいしだの突き放したような小唄風のボーカルが乗ることで和風メロディーの情緒が引き立つこととなった。「ブルー・ライト・ヨコハマ」が歌謡曲と洋楽を融合したエポックメーキングな作品といわれるゆえんである。

 年末にリリースされた同作は69年に入ってすぐに火が付き、2月10日付けのチャートで1位を獲得。以後9週にわたってトップを独走し、「帰って来たヨッパライ」「星影のワルツ」「恋の季節」に続く、オリコン史上4作目のミリオンセラーとなる。この特大ヒットで、筒美は69年の日本レコード大賞で作曲賞を初めて受賞。その後も、ロック、ディスコ、ソウル、ヒップホップなど、時代の先端を行く洋楽のリズムやコード進行を研究し、日本の歌謡曲に応用することで、膨大な数のヒット曲を生みだしていった。

 土着的でウエットな歌謡曲や、洋楽のカバーポップスが主流だった日本の音楽シーンに洗練された和製ポップスを定着させ、5つのディケイド(60年代、70年代、80年代、90年代、00年代)でナンバーワンヒットを放った筒美京平。69年2月10日はその偉大なヒットメーカーの時代が幕を開けた記念日として記憶しておきたい。

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