【プロレスこの一年 ♯20】初代タイガー・佐山の原点「格闘技大戦争」 マスカラス&テリーの人気爆発 77年のプロレス

本稿が掲載される14日は、いまから43年前、初代タイガーマスクの佐山聡がプロレスラーとして初めて格闘技のリングに上がった記念すべき日だ。1977年(昭和52年)11月14日、日本武道館で開催されたキックボクシング対マーシャルアーツの「格闘技大戦争」。ここに当時20歳の佐山が新日本プロレスから参戦し、キックボクシングサイドで登場、全米プロ空手ミドル級1位のマーク・コステロとキックルールで対戦したのである。試合では佐山が6ラウンド戦い抜くも判定負け。しかしながら、この体験がのちの総合格闘技へとつながる原点であったことは歴史が証明している。

佐山聡(写真は85年)【写真:平工 幸雄】
佐山聡(写真は85年)【写真:平工 幸雄】

1977年(昭和52年)11月14日、武道館で開催された「格闘技大戦争」

 本稿が掲載される14日は、いまから43年前、初代タイガーマスクの佐山聡がプロレスラーとして初めて格闘技のリングに上がった記念すべき日だ。1977年(昭和52年)11月14日、日本武道館で開催されたキックボクシング対マーシャルアーツの「格闘技大戦争」。ここに当時20歳の佐山が新日本プロレスから参戦し、キックボクシングサイドで登場、全米プロ空手ミドル級1位のマーク・コステロとキックルールで対戦したのである。試合では佐山が6ラウンド戦い抜くも判定負け。しかしながら、この体験がのちの総合格闘技へとつながる原点であったことは歴史が証明している。

 新日本では前年よりアントニオ猪木が「格闘技世界一決定戦」と銘打つ異種格闘技路線をスタート。若手の佐山は猪木から「いずれは新日本も格闘技の試合をする。そのときはオマエを第1号の選手にする」と言われていた。佐山の格闘技ポテンシャルを猪木は見抜いていたのである。佐山もその気で格闘技のトレーニングを積んでいたのだが、78年6月からメキシコ武者修行に旅立った。佐山が凱旋帰国したのは81年4月だが、そのときは正体不明のマスクマン、タイガーマスクだったのである。

 では、佐山がプロレスラーとして格闘技のリングに上がった77年とは、プロレス界にとってどんな一年だったのか。

 ウィリエム・ルスカ、モハメド・アリとの異種格闘技戦で名を上げた猪木の新日本は、スタン・ハンセンの初参戦で77年がスタートした。初戦は1月7日、越谷での開幕戦で、ハンセンが猪木に反則負け。2月10日には新日本プロレスとして日本武道館を初使用。セミファイナルが坂口征二VS上田馬之助のシングル初対決で、メインが猪木VSタイガー・ジェット・シンのNWFヘビー級王座戦。猪木がレフェリーストップで防衛に成功した。

 猪木はジョニー・パワーズとのNWF戦に集中するため、両者とも「第4回ワールドリーグ戦」に不参加。3月31日に蔵前国技館で行われた決勝戦には坂口とマスクド・スーパースターが進出し、坂口が2連覇を達成した。蔵前大会は2連戦で、翌日には吉田光雄が凱旋帰国。セミファイナルでスーパースターと対戦した。吉田が長州力を名乗るのは、5月23日からとなる。

 8・2武道館では猪木の「格闘技世界一決定戦」が復活。全米プロ空手世界ヘビー級チャンピオンの肩書きを持つザ・モンスターマンとの対戦で、猪木はパイルドライバーからのギロチンドロップでKO勝ちをおさめた。1か月後の名古屋でハンセンを退けNWFヘビー級王座を守った猪木は、10月25日にも武道館で「格闘技世界一決定戦」を敢行した。しかもこの大会は異種格闘技戦2試合をラインナップ。猪木はアリとの対戦経験もあるヘビー級ボクサーのチャック・ウェップナーを逆エビ固めで破り、坂口がアレン・コージとの柔道ジャケットマッチで勝利を飾った。11月14日、佐山の格闘技挑戦をリングサイドで見守った猪木は12月8日、蔵前にて16年ぶりに来日した“密林王”グレート・アントニオを制裁KOしてみせた。

次のページへ (2/3) 天龍源一郎が凱旋帰国し日本デビュー
1 2 3
あなたの“気になる”を教えてください