モデル→パチンコイメガ→レースクイーン 1度は諦めた芸能界…亀澤杏菜の地道な下積み
「レースアンバサダーアワード2025」を受賞した亀澤杏菜。苦節10年のレースクイーン人生でようやくつかんだ栄誉あるタイトルだった。中学1年生の時に、ファッション誌「ニコラ」(新潮社)の専属モデルとして、表舞台での活動をスタートするも、高校生で活動を休止。その後は地道な下積み生活を送りながら、紆余曲折を経て、サーキットという華やかなステージに舞い戻ってきた。どのような歩みでトップレースクイーンの地位まで上り詰めたのだろうか。

亀澤杏菜がレースクイーンの座をつかむまで
「レースアンバサダーアワード2025」を受賞した亀澤杏菜。苦節10年のレースクイーン人生でようやくつかんだ栄誉あるタイトルだった。中学1年生の時に、ファッション誌「ニコラ」(新潮社)の専属モデルとして、表舞台での活動をスタートするも、高校生で活動を休止。その後は地道な下積み生活を送りながら、紆余曲折を経て、サーキットという華やかなステージに舞い戻ってきた。どのような歩みでトップレースクイーンの地位まで上り詰めたのだろうか。(取材・文=中村彰洋)
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中高生から絶大な人気を誇るファッション誌「ニコラ」。バスケットボールに熱中していた亀澤にとって、想像すらしていない世界だった。「憧れてはいましたが、自分がモデルになるなんて1ミリも思っていませんでした」。
きっかけは、中学1年生の時だった。家族ぐるみで仲の良かった友人が同誌のオーディションに挑戦。それに付き添いをする形で、地元・愛知から観光がてらに東京を訪れた。友人の応援のために足を運んだその会場で、転機が待っていた。
「オーディション会場で『飛び入りでオーディションに参加してみない?』と声を掛けていただきました。何がなんだか分からないまま挑戦をして、気付いたらグランプリになっていました」
思いがけない展開に「ふわふわした感覚」のまま、芸能界へと飛び込んだ。そして、中学生だった亀澤にとって、華やかさだけではなく「厳しい世界」であることを思い知る期間となった。
「今思えば、あの時にもっと頑張っておけばよかったなぁと思うこともあります。東京に出るぐらいの覚悟を持っていれば……と親とも笑い話をしています。当時はそのすごさも分かっていなくて、学校でも好奇の目で見られることも増えてしまい、普通の生活に戻りたいという気持ちが正直ありました」

女性誌モデル→グラビア、環境の変化に戸惑った過去「めっちゃ抵抗がありました」
高校は商業科のある学校へ進学。普通の毎日を求め、芸能活動禁止の高校をあえて選択し、高校1年生のタイミングで所属していた事務所を離れる決断をした。
「芸能活動を続けることも意識はしましたが、1度全部辞めて、高校生活をまずは楽しもうと考えました。ひたすらバスケに打ち込んでいたので、当時はかなり筋肉がすごかったと思います(笑)。手に職をつけたかったので、簿記検定を取得したりもしました」
その後は短大へ進学。しかし、1度経験したきらびやかな世界への憧れが徐々に増していった。「もう1度挑戦してみよう」。そんな思いで再挑戦を決断した。
「少しだけ就職活動をしましたが、『本当にやりたい仕事なのかな』と考えるようになりました。モデルとして撮影してもらった時間が、すごく楽しかったことが記憶に残っていて、どうしても再挑戦してみたくなりました。当時はオーディションが就活みたいな感じでした(笑)」
いくつものオーディションを受け、ようやく所属が決まったものの、リスタートは順風満帆とはほど遠いものだった。ファッション誌のモデルを希望していたが、提案されたのは水着のグラビア。抵抗はありながらも、その先の未来を信じて、上京を決断。まさに言葉通りの「もやし生活」をしながら挑戦を続けた。
「本当にやりたかったのは、モデル仕事だったので、水着はめっちゃ抵抗がありました。でも、当時の事務所から『その年齢だとまずはみんなグラビアやってるよ』と言われて。『え、そうなの?』って(笑)。当時は、敷金・礼金ゼロの怪しいマンションで貧乏生活をしていました。ショップ店員をしながら、グラビア活動をしていたのですが、金銭的にも厳しく、本当にもやしと豆腐だけを食べて暮らすような生活をしていました」
グラビアオーディション「ミスアクション2013」にも挑戦し、セミファイナルまで駒を進めた。“ニコモ”時代とは、見せ方がガラリと変わり、戸惑いも大きかった。
「今までは、女の子のファンが多かったので、急に男性ファンに見てもらう工夫が必要になり、本当に苦労しました。水着の着方なんて分からなかったし、当時は事務所の方に『着こなせていない!』と怒られたりもしました」
一方で、この挑戦が人生の大きな転機となっていった。亀澤が挑戦した「ミスアクション2013」でグランプリに輝いたのが、当時からレースクイーンとして活躍していた荒井つかさだった。
「今思うと、当時の有名なレースクイーンの方々も出ていたオーディションでした。そこに参加したことで、『この人たちは何をやっている子たちなんだろう』と興味を持ったことで、レースクイーンという世界を知りました」
パチンコ雑誌のイメージガールとして活動→賞を総なめ「やり切って辞めました」
思うように仕事を勝ち取ることはできず、東京での貧乏生活にも限界を感じ、愛知の実家へ戻ることを決意。芸能への道が途切れかけた頃に、友人から勧められたのがパチンコ雑誌のイメージガールだった。
「友達から『雑誌のイメガからレースクイーンになった人もいるよ』と教えてもらって、雑誌社に『イメージガールになりたいです!』と直接連絡をして、所属が決まりました」
レースクイーンという職業を認識した亀澤。気付けば「憧れ」へと思いは変化していた。
「レースクイーンの方々が、かわいいコスチュームを着用して、キラキラしている姿に憧れるようになりました。当時はレースクイーン出身の方がテレビで活躍していたりもしたので、言い方は悪いですが“ステップアップ”するためにも経験してみたいと思いました。でも、いざレースクイーンを経験したら、楽しくてそんなことは忘れてしまったんですけどね(笑)」
その後、イメージガールとして地道に活動を続けていく中で、事務所から「レースクイーンのオーディションを受けてみない?」と誘いをもらえるようになった。そして、2015年に初めてサーキットに立つことができた。
「月に20日以上は、イメージガールとして活動していました。とにかく地道に頑張り続けました。その後もレースクイーンと並行して、2020年まで7年間続けていました。イメージガールでも、表彰式があったのですが、新人賞や東海地区、全国区での賞などもすべて受賞して、やり切って辞めました」
イメージガールを経験したことで、自分の魅せ方にも徐々に自信を持てるようになっていった。男性からの注目を浴びることに、当初は「怖さ」すら感じていたが、辞めるころにはそんな感情はなくなっていた。「慣れって怖いですよね」と笑う。
15年のレースクイーンデビューからは、その地位を確立するために努力し続けた。しかし、アワードを初受賞したのは2025年と10年後。そこに至るまでも、必死の日々を送った。
□亀澤杏菜(かめざわ・あんな)1991年10月5日、愛知県出身。プリッツコーポレーション所属。中学時代にファッション誌「ニコラ」(新潮社)で専属モデルとして活動。2015年にレースクイーンとしてデビューすると、25年には念願だった「レースアンバサダーアワード2025」を受賞した。24年からは「Astemo」のアンバサダーを3年連続で務めている。
X:@anchiy1005
インスタグラム:@anna_kamezawa
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