西村修さん「完全燃焼」と語る生涯のベストバウト オリジナル技を持たない異色レスラーの功績
プロレスラーの西村修さん(享年53)はオリジナルのフィニッシュホールドを持たない異色のレスラーだった。大技がなくても観客を沸かせるスタイルを築き上げ、強敵相手に何度もあわやの場面を作った。生涯のベストバウトに挙げた1戦は、そんな西村さんの真骨頂と言える死闘だった。(連載全3回の3回目)

こだわり抜いた“引き算”のプロレス 原点は欧州遠征
プロレスラーの西村修さん(享年53)はオリジナルのフィニッシュホールドを持たない異色のレスラーだった。大技がなくても観客を沸かせるスタイルを築き上げ、強敵相手に何度もあわやの場面を作った。生涯のベストバウトに挙げた1戦は、そんな西村さんの真骨頂と言える死闘だった。(連載全3回の3回目)
2000年1月、フロリダ州タンパに自宅を構えた西村さんは、1回目のがん(後腹膜腫瘍)による長期欠場から復帰。30歳を過ぎると、体力的にも精力的にも充実期を迎えていった。
1995年、藤波辰爾が立ち上げた「無我」に共鳴し、クラシカルなレスリングを追求。ベースとなるのは、伝統の基本技やグラウンドの攻防が中心で、他のレスラーとは一線を画した。得意技は足4の字固めや逆さ押さえ込み。オリジナル技は皆無で、西村さんはかたくなまでに自身のスタイルを貫いた。
その原点は、90年代の欧州遠征時に目撃したトニー・セントクレアーやフィンレーらの戦いぶりだった。
たとえメインイベンターであっても、彼らはオリジナルのフィニッシュホールドを持たなかった。試合はラウンド制で、「間合いと殴る蹴る、関節技で切磋して、最後はスクールボーイとかスモールパッケージでワンツースリー。それでうわーってなる」。派手な技の応酬は、「アメリカと日本特有ですよね」と言うほど、本人の中では完全に切り離していた。
フロリダの師カール・ゴッチやドリー・ファンク・ジュニアの教えもあった。西村さんは生前、ドリー道場に行けば、ドリー自身が1対1で何時間でもスパーリングをしてくれたとうれしそうに語っていた。
「ドリーさんの話を聞いていると、プラスとマイナスだったらマイナスなんですよ。いかに出すかじゃなくて、いかに出さないかなんです」
技を積み上げていく“足し算”のプロレスではなく、技をいかに使わないかという“引き算”のプロレス。時代に逆行しようと、信念は揺るがなかった。「無我は引き算をやりましょうということ」と、西村さんのスタイルは確立された。
「アメリカのWWEが今面白いことをやってて、技を3つしか使ってはいけない訓練をさせてるらしいですよ。でも日本は、20個の技を使おうとするじゃないですか。無我の理論からするともう真逆、真反対。必要ないの、20個も。2個とか3個でいいんですよ」
絶対的なフィニッシュホールドを「スペシャル」と表現した西村さんは、「いかにスペシャルを出すかじゃなく、スペシャルじゃなくても、試合を組み立てて、組み立てこそがスペシャルなんだ」と、力説していた。

日本でトップに立つにはオリジナル技は必要か?
一方、日本でスターに駆け上がるためには、オリジナル技を持つことの必要性も認めていた。
「日本でオーバー(大成功)するにはやっぱりスペシャルいりますよね。オリジナルの」
アントニオ猪木の卍固め、藤波辰爾のドラゴン殺法……。シングル王座を戴冠し、団体を引っ張っていくような選手は、いつの時代も代名詞となる技を開発していた。
「スペシャルを持たなかったから、それが私が日本でオーバーできなかった理由だとすれば」。西村さんは一瞬思案しつつも、「今それを反省してもしょうがないでしょうけど」と、表情を緩めて言った。通ってきた道は間違っていない、後悔はしていないと言いたいようだった。
大技はなくても十分試合は成立する。西村さんは34年間のキャリアの中でそのことを証明してきた。ヘッドシザースを三点倒立から抜け出す“お決まり”も持ち味の一つだった。逆さ押さえ込みは、自分のような選手が使うことで技のインパクトが何倍にも増すと考えていた。
「逆さ押さえ込みをなぜ多用するかというのは、自分より体がでかい選手に攻め込まれても一発逆転のスコンって技で光るわけ」
パワーファイターには特に有効で、相手の突進力を利用した西村さんの職人技には喝采が浴びせられた。
西村さんが生き生きとした舞台があった。連日シングルマッチの連戦が続く夏の風物詩・G1クライマックスだ。
「のらりくらりが1番こっちのだいご味が出せちゃう」。本命視されたV候補が、西村さんに30分ドローに持ち込まれ、痛い失点を喫する姿は何度も見られた。

中西のアクシデントで波乱の展開に…
そんな西村さんが34年のキャリアの中でベストバウトに挙げた試合がある。
2002年6月5日、大阪府立体育会館でのIWGPタッグ選手権。西村さんは中西学と組んでチャンピオンの蝶野正洋、天山広吉組に挑戦した。
試合は王者組が巧みなチームワークで攻め立て西村さんが捕まる展開。タッグとして凸凹感の否めない挑戦者組は、30分経過とともに反撃ののろしを上げる。中西が蝶野をアルゼンチン式バックブリーカーに担ぎ上げて天山に投げ飛ばすと、まとめてスープレックスでたたきつける怪力を発揮し、雄たけびを上げた。
ところが、天山にトドメのジャーマンを決めると、カウントの途中で異変が起こる。中西は突然、悲鳴とともに右ひざを押さえてもん絶。そのまま場外で戦闘不能状態となった。
「中西が途中で肉離れを起こしちゃって、もう動けませんと」
すると、西村さんは思いもよらない行動を取る。エプロンで自身のリングシューズのひもをほどき始めた。
「私自身もシューズを新調して、もう重くてしょうがなかった。靴を脱ぎたかったんですよ」
素足になった西村さんは、中西が両肩を担がれ退場し控室で治療を受ける間、感情むき出しのファイトで奮闘。会場は大西村コールに包まれた。
「重いから脱いじゃえと思って脱いで、お客さんもさらにボルテージ上がって。で、中西が帰ってきて、またさらにワッてなって」
50分を過ぎても西村さんのスタミナは途切れない。血みどろになった天山のフォールをブリッジで返すと、逆さ押さえ込みで3カウント寸前まで追い込む。60分フルタイムドローで王座は奪えなかったが、最後の1秒まで目が離せない屈指の好勝負を繰り広げた。
「それが完全燃焼」
独特の試合運びでプロレスの持つ奥深さを体現してきた西村さん。天国でもきっとトレーニングに励んでいることだろう。
□西村修(にしむら・おさむ)1971年9月23日、東京都文京区出身。錦城学園高から新日本プロレス学校を経て90年に新日プロ入門。91年4月にデビュー。93年のヤングライオン杯で準優勝し、海外修行に旅立つ。98年にがん(後腹膜腫瘍)を告知され、長期欠場に入る。1年半後に復帰。フロリダに居住し、日本と米国を行き来する生活を続ける。2006年、新日プロを退団し、無我ワールド・プロレスリングに合流。11年、文京区議会議員選挙に初当選する。186センチ、105キロ。
