西村修さん、生前に語っていた長州力への感謝 帰国命令拒否で「大げんか」も…鳴かず飛ばずの日々を救ったひと言

2月28日にがんで亡くなったプロレスラーの西村修さん(享年53)が、レスラー人生で師と仰いだのは藤波辰爾やドリー・ファンク・ジュニアが知られている。実際、2人からはファイトスタイルにおいて大きな影響を受けている。反面、衝突が伝えられたのが長州力だ。水と油のように見えた2人の関係だが、生前の西村さんが残したのは、長州へのあふれる感謝の言葉だった。(連載全3回の2回目)

忘年会で新日本プロレス道場の管理人にヘッドロックをかけた若き日の西村修さん【写真提供:三澤威さん】
忘年会で新日本プロレス道場の管理人にヘッドロックをかけた若き日の西村修さん【写真提供:三澤威さん】

21歳で初のアメリカ遠征 ファーストクラスで坂本龍一さんと同乗

 2月28日にがんで亡くなったプロレスラーの西村修さん(享年53)が、レスラー人生で師と仰いだのは藤波辰爾やドリー・ファンク・ジュニアが知られている。実際、2人からはファイトスタイルにおいて大きな影響を受けている。反面、衝突が伝えられたのが長州力だ。水と油のように見えた2人の関係だが、生前の西村さんが残したのは、長州へのあふれる感謝の言葉だった。(連載全3回の2回目)

 1993年8月、21歳の西村さんは大きな転機を迎える。初めての米国遠征に出発することになった。

 指示したのは、長州だった。巡業中の神奈川・茅ヶ崎の体育館。186センチと長身ながら西村さんの体重が増えないことにいら立っていた長州は、「もうダメだ。お前、タンパに行ってこい。体を大きくしてこい。そうだ、タンパにしよう」と突じょ通達。米フロリダ州タンパのヒロ・マツダ道場への入門を決めた。

 西村さんの心は踊った。

「21のガキに会社はJALのビジネスクラスを用意してくれて、それを私の知り合いがファーストにアップグレートしてくれたんですよ。いきなりファースト。隣の隣に坂本龍一さんが乗っていました」

 ニューヨークを経由し、タイガー服部とともにタンパ入り。ブライアン・ブレアーの離れの家を月500ドルで借り、異国での生活をスタートさせた。

 1年が過ぎ、西村さんに帰国命令が下る。しかし、西村さんは悩んだ末、これを断った。有名な“帰国命令拒否騒動”だ。

 西村さんにも言い分があった。

「圧倒的に場数が少ないんですよ。本当にちっちゃいインディーにたまに出るぐらいで、それで帰ってこいって。天山(広吉)はもうバリバリに、2年間ぐらいオーストリア、ドイツで試合やってるわけですよね。毎日試合やって、体がドカンってごつくなって」

 体重は85キロから100キロまで増えていたが、いかんせん試合数が足りなかった。同期へのライバル心もあった。西村さんは電話越しに長州と口論になる。

「長州さんと大げんかして、ガチャンって切られて、勝手にしろってことになって、給料も止められて」

 その後ニューヨークに移動し、アントニオ猪木と合流。アドバイスを受け、欧州へと転戦する。英国ウィガンの名門ビリー・ライレージムに入門するなどして、日本への帰国の途についたのは、実に95年の秋のことだった。日本では武藤敬司が高田延彦を撃破した10・9東京ドーム大会が空前の盛り上がりを見せていた。

 西村さんは、長州に再び電話をかけ、帰国を報告した。

 長州は「分かった。じゃあとりあえず明日事務所、12時に行け」と言って、再び電話をガチャンと切った。西村さんは長州の怒りが最高潮に達していると感じていた。

 そして翌日、事務所に行くと、ベストに手を突っ込み、サングラスをかけた長州がやってきた。ただならぬ雰囲気に、「おかえりなさい」と西村さんの帰国を祝っていた事務所のムードは一変する。「お前、西村会議室の中に入れろ。カーテン閉めろ」と社員に指示する声が聞こえた。

タンパで修行中の西村修さん(左)。右は田山正雄レフェリー、ヘラクレス・ヘルナンデス【写真提供:田山正雄さん】
タンパで修行中の西村修さん(左)。右は田山正雄レフェリー、ヘラクレス・ヘルナンデス【写真提供:田山正雄さん】

カルガリーで味わった「史上最強の苦しみ」

「帰ってこいと言ったら帰ってこなきゃダメ。お前は会社の人間。会社が指示したら帰る」

 西村さんは1時間にわたり、大目玉を落とされる。

 その後、年末の「SGタッグリーグ」で武藤と組んでシリーズに復帰。だが、華々しい凱旋とはならなかった。

「武藤さんがスターだから、一介の若手みたいな感じになっちゃうんですよ」

 武藤の圧倒的なオーラの下で、鳴かず飛ばずの日々。浮上のきっかけはつかめなかった。

 再び悩んでいた西村さんに、声をかけたのが、長州だった。

「お前、もう1回海外行くか」

「まさかの長州さん。また私にチャンスをくれたんです。もう即答しましたね」

 今度の行先は欧州だった。

「前回と一緒、体作り。それとあと、試合が毎日あるからがっちりやってこい」

 97年、まずはカナダ・カルガリーのジョー大剛氏のもとへ行き、肉体改造に取り組んだ。午前6時半に起床し、1日4時間の筋トレ。さらに西村さんが悲鳴を上げたのが地獄の食トレだった。深夜にすし店で「ご飯1粒食うのにやっと」と、腹が限界までパンパンに膨らんだ状態から、さらに1軒、2軒と大剛氏に連れ回される。

「ちょっと腹見せてみろ」と言われ、西村さんがシャツをめくると、大剛氏の怒声が響いた。

「バカ野郎、まだ横が空いてんじゃねえか」

 ギリシャ料理店で出てきたのは巨大なピザ。「それが史上最強の私の苦しみ。食う苦しみ」。気絶しそうになりながら、西村は耐えた。

「200%を超えるぐらいのことをやると、胃袋もでかくなる」

 体重は1か月で105キロまで上昇。しかも「落ちない105キロ」を手にした西村さんは、7月からオーストリア、ドイツに遠征。自身のレスリングスタイルを確立するに至った。

海でトレーニングすることが大好きだった【写真:ENCOUNT編集部】
海でトレーニングすることが大好きだった【写真:ENCOUNT編集部】

レスラー人生の節目にいた長州 フロリダでの居住も許可

 98年、西村さんは26歳にして1回目のがん(後腹膜腫瘍)を患った。長期欠場を挟み、2000年からは自宅をタンパに移したが、その時も長州が認めてくれたという。年収は半分になったものの、飛行機代を会社が負担するという条件だった。西村さんは09年の7月まで10年近く、毎月のように日本と米国を行き来する生活を送った。

 レスラー人生の節目節目で、長州の存在は大きかった。思い返せば、1991年のデビュー戦も長州のひと言から始まった。

「あんなガリガリだったのに、あいつ、ちょっと上げてみよう。ダメだったらレフェリーだ。だけどちょっと育ててみるか、みたいになったのは長州さんの判断」

 そのころから口調は強くても、長州は辛抱強く成長を見守ってくれた。そのことへの恩義を西村さんは誰よりも感じていた。

 西村さんの師は藤波であり、ドリーであり、また武藤であることは有名。しかし、もう1人挙げるとするならば……、そこには、はっきりと長州の顔が浮かんだ。

「4人になるとね、意外に長州さんかもしれない。ぐっちゃぐちゃに99.9%ずっと怒られてましたけど、4回もチャンスをくれた」と西村さんは言った。

□西村修(にしむら・おさむ)1971年9月23日、東京都文京区出身。錦城学園高から新日本プロレス学校を経て90年に新日プロ入門。91年4月にデビュー。93年のヤングライオン杯で準優勝し、海外修行に旅立つ。98年にがん(後腹膜腫瘍)を告知され、長期欠場に入る。1年半後に復帰。フロリダに居住し、日本と米国を行き来する生活を続ける。2006年、新日プロを退団し、無我ワールド・プロレスリングに合流。11年、文京区議会議員選挙に初当選する。186センチ、105キロ。

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