洗礼浴びた日本人初のパリダカ挑戦 トヨタの歴史に名を刻んだランクルでの壮絶ラリー

元プロラリードライバーの根本純さん(71)は激流のような人生を歩んできた。湘南の裕福な家に生まれたものの、父親の会社が倒産し、6畳一間に家族4人で暮らす少年時代を経験。17歳で免許を取り、ラリーの道に進むと、箱根の峠での猛特訓を経て、世界で最も過酷とされるパリ・ダカールラリー(現ダカールラリー)に日本人として初挑戦、トータル13回にわたって出場した。その後は文京区議会議員、国会議員の公設秘書などを経て、現在は旧車イベントなどを主催している。ぶっ飛んだ人生をひも解く連載の5回目。

パリからスタートしたパリ・ダカールラリー【写真:(C)ACP】
パリからスタートしたパリ・ダカールラリー【写真:(C)ACP】

砂に乗り上げ宙を舞ったランクル60

 元プロラリードライバーの根本純さん(71)は激流のような人生を歩んできた。湘南の裕福な家に生まれたものの、父親の会社が倒産し、6畳一間に家族4人で暮らす少年時代を経験。17歳で免許を取り、ラリーの道に進むと、箱根の峠での猛特訓を経て、世界で最も過酷とされるパリ・ダカールラリー(現ダカールラリー)に日本人として初挑戦、トータル13回にわたって出場した。その後は文京区議会議員、国会議員の公設秘書などを経て、現在は旧車イベントなどを主催している。ぶっ飛んだ人生をひも解く連載の5回目。(取材・構成=水沼一夫)

 1981年、俺は第3回パリ・ダカールラリーに日本人として初出場した。1月1日スタート、20日ゴールで、休みは真ん中の1日だけで1万キロの超耐久ですね。しかも、トヨタが出してくれたのが、1号車がKP61のスターレットでFR(後輪駆動)の1300CC。2号車でサポート役の俺には発売したばかりのランドクルーザー60を用意してくれた。

 スターレットを運転したのは、「キャラバンII」のときにサブでついてくれた5歳上のスーパーメカニックの久保田勝さんだった。ランクル60には、カメラの横田紀一郎さんとナビのフランス語通訳が乗って、総勢5人で出場したんだけど、案の定、全然ノウハウがなくて最初からアクシデントに見舞われた。

 本当はラリー用のギアにしなくちゃいけないのにレース用のハイギアが組まれ、スターレットは最初のちょっとした砂丘を上るにも立ち往生しちゃう。

 ランクルで引き上げて、丘の上ではいきなりクラッチを交換。やっと直して走り出したらもう夜になっちゃって、ちょうど移動区間が舗装道路だった。そうしたら、猫の舌って言うんだけど、風の流れで砂が流れ出ているわけ。それがジャンプ台みたいになっていて、結構な量の砂だった。ドーンと前に車が飛んで、スターレットは軽いから大丈夫だったんだけど、俺の車は重いから地面に突っ込んだときに、タイヤをコントロールするリンケージ(棒)がちぎれちゃって、また直さなきゃいけない。

 まだ一応、遠くに町があるところだったから、スターレットで町まで行って、部品を溶接して戻ってきて、それからまた追っかけを再開。もう最初の3日間、ほとんど寝ていない状態になった。

 どうしてかというと、パリダカって、それぞれのゴールポイントに行くと給油できたり、飯があるわけね。飯と言っても、缶詰1個にコーヒー1杯みたいな世界なんだけど、スタート時間が決められていて、そこに30分遅れるともう失格になっちゃうわけ。

 我々は遅れに遅れていたから、当然夜に着けなくて、もう明け方にやっと着くぐらい。だから1日目なんかは着くともう全然寝る時間がなくて、すぐに出なきゃなんないから、朝飯をまともに食べる時間もない。ランチ弁当だけ余分にもらって、それでやっと次のステージに行って…。2日目になって、途中で寝ちゃいそうになるし、実際寝て突っ込みそうになったときもあったけど、そんなことで何とか持ち直したんだよね。

1984年エジプトファラオラリーにも日本人初出場した【写真:本人提供】
1984年エジプトファラオラリーにも日本人初出場した【写真:本人提供】

バオバブの木に突っ込んで…死を覚悟

 その後も、ランクルのリンケージがもう1回折れて、バオバブの大木に突っ込んだり、死にそうな思いもしたよ。

 リンケージはこれ以上、溶接もできないから、バンドとスパナで縛ってなんとか次の町まで行った。代わりの部品があったんだけど、最新型のランクル60の部品じゃない。旧40の部品しかなかった。取り付け部がひと回り細い! じゃあどうしたかといったらスーパーメカニックの久保田さんがパイナップルの缶詰を切って、スペーサー(かさ増し部品)を作って、なんとか直しちゃった。「すげえな」と思いましたね。実際、それでちゃんと走れた。

 パリダカはメカニックもサバイバルだった。その後は不安もなく、俺たちはボロボロになりながらも、なんとか最後まで完走した。時間外完走というのが我々の正式な記録で、要は完走扱いながら、トップタイムから「2時間遅れ内完走」じゃなかった。(その後ルール改正でこの条件はなくなる)

 再チャレンジは翌82年。俺たちはトヨタカリーナとランクル60(前年の車を再利用)で出場した。そして、これはトヨタの歴史にもちゃんと残っているんだけど、このとき2駆で完走した車がほとんどいなくて、俺たちが2駆で優勝しちゃった。カリーナでクラス優勝。チームとしては栄光の記録ができたんだよ。
 
□根本純(ねもと・じゅん)1951年5月25日、神奈川・藤沢市出身。81年、日本人として初めてパリ・ダカールラリーに挑戦。97年まで13回出場し、完走6回、リタイア7回。5大陸55か国200万キロを走破。元文京区議会議員。現在はツーリングイベント「THE銀座RUN」などを主催。秋には「THE清里RUN」を行う。「VAZ☆Club De i」主宰。

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