ブレイディみかこ、初の小説で“厳しい現実”描く「別の世界を求めることはスタートライン」

英国・ブライトン在住のライター、ブレイディみかこが初の小説「両手にトカレフ」(ポプラ社)を6月8日に上梓した。人種差別や経済格差、薬物依存――。書籍に登場する子どもたちが直面する問題は、ノンフィクションの形では書くことができなかった現実だ。息子の一言が、ペンを取るきっかけになったという。

ブレイディみかこ【写真:Shu Tomioka】
ブレイディみかこ【写真:Shu Tomioka】

「あの本はウソ」 息子の一言が生んだ初の長編小説

 英国・ブライトン在住のライター、ブレイディみかこが初の小説「両手にトカレフ」(ポプラ社)を6月8日に上梓した。人種差別や経済格差、薬物依存――。書籍に登場する子どもたちが直面する問題は、ノンフィクションの形では書くことができなかった現実だ。息子の一言が、ペンを取るきっかけになったという。(取材・文=西村綾乃)

 アイルランド人の夫と結婚し、息子と3人で英国・ブライトンで暮らしているブレイディ。多様なバックグランドを持つ子どもたちが集まる中学に通い始めた息子が学校で経験した出来事の数々を、「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」にまとめた。2019年に発表したノンフィクション作品は広く支持され、累計100万部を超えるヒット作になった。

「本を読んだ息子の第一声は『幸せな少年の話だね』でした。息子が通っていた中学校は、貧しい白人の子どもが多く、かつては最底辺校と言われていました。本には、校長先生が替わったことがきっかけで、生徒たちの素行が改善されスクールランキングが上がって行く様子などをつづりました。ハッピーエンドです。音楽部を作りバンド活動や、ストリートダンス、演劇など。やりたいことに打ち込む子どもたちがいる一方で、(貧困などが理由で)クラブ活動ができない子もいました。息子から『その子たちについて触れていないよね。あの本はちょっとウソだよね』と言われたんです」

 小さな海辺の町。昔、ブレイディが長期無職者が利用する託児所で保育士として働いていた頃の子どもたちも今は中学生だ。彼らこそがクラブ活動もままならないティーンたち。今でも交流のある子たちもいる。「ノンフィクションで書くには、生々しすぎる」と触れなかった事実。息子の言葉は、「あの子たちを見えない存在にしていいのか」とブレイディの心でくすぶっていた思いを揺さぶった。

「私自身も、貧しい家で育ちました。高校は進学校に進みましたが、定期代を稼ぐためスーパーでアルバイトをしていたんです。学校ではバイトが禁止されていたので、バレたときは先生に呼び出されました。『定期代を払わなくてはいけない』と説明したら、『今どきそんな子はいない』と一蹴されて。当時の日本は、バブルで浮かれていた時期でしたから、聞く耳を持ってもらえませんでした。『ここにいるのに、いないことにされている』。息子の言葉は、10代のときに私こそが感じていたものでした。それなのに私は今、あの大人たちと同じことをしているんじゃないかと」

 描いた長編小説の主人公は、14歳の少女・ミア。男やドラッグにおぼれた母親と弟・チャーリーと生活保護を受けて暮らしている。疲弊していく暮らしの中で、図書館で出合った一冊の本が、「私なんて」と諦めがちだったミアの心を動かしていく。それはブレイディ自身も経験したことだった。

「厳しい現実を書くと決めたとき、主人公の苦しみを知り、一緒に走ってくれる存在が必要でした。浮かんだのは、虐待や貧困、無国籍など過酷な生い立ちの中でも、思想を持つことで自分を貫いた(大正時代の活動家)金子文子のこと。彼女のことは13歳ごろに、『余白の春 金子文子』(瀬戸内寂聴著)で知り、自伝(『何が私をこうさせたか 獄中手記』)を読んだときは、『やられた』と思いました。アカデミックな家庭に生まれなくても、思想を深めることができる。『私もつかめるのかもしれない』と視野が広がりました。苦しい生い立ちを乗り越え、恋愛や生きることに命を燃やす文子の姿は私の希望でした」

 10代のブレイディが鼓舞されたように、ミアも奮闘するフミコの姿に光りを見つけていく。怒りや悲しみを詩に変えたミアの才能を、同級生のウィルが肯定してくれた。

「今回の作品は、自分の子どものときの経験を探りながら書き進めていきました。最初は終わり方を決めていなかったので、『どうなってしまうんだろう』と思いながら走っていました。ミアが口にした『ここじゃない世界に行きたい』という言葉は、10代の私自身が感じていたこと。そして求めているもう一つの世界は、全然別のところに存在するのではなくて、この世界とつながっている。別の世界とは、ここにある世界が変わった姿なんだと。物語の中でミアと文子が気が付いたときに、書いてよかった、過去の自分の痛みや悲しみが昇華された……と感じました」

「過去は変えられないけれど、未来は変えられる」。そう信じたミアは、つらい現実から逃れるために。小さな弟を連れて大胆な行動に出る。

「新しいものを求める。逃げようとすることは悪いことではないと伝えたい。個人史的には『革命』であると思います。過去から逃げようとしている自分と考えると悪いことをしているように感じてしまうかもしれないけれど、別の世界を求めることは新しい時代を始めるスタートラインに立つことなのだと発想を転換してほしい」

 ヤングケアラーとして家族を支えた高校時代。福岡の小さな田舎町での暮らしは閉塞感があった。声を上げてもかき消されてしまう。英国の労働者階級出身のアーティストが貧しいことを堂々と歌う姿に憧れた。高校卒業後は日本と英国などを行き来。1996年から定住している。

「世界は一つだけではない。イギリスに来てみたらすごく楽になりました。私の人生もいろんな偶然が重なって今につながっています。作家になろう、本を書こうなんて夢にも思っていませんでしたが、偶然の連鎖でいまがあります。偶然に誰かと出会う。本と出合う――。何かと出会って人生が変わるときは、偶然の方が大きいと思います。ミアがエレベーターの扉がたまたま開いているのを見て乗ってみたように、偶然から始まる未来を自分のものにしてほしい」

 物語で描かれた現実に今、苦しんでいる子どもたちもいる――。

「子ども自身や、苦しんでいる側は、『SOS』を出すことが難しい場合が多い。特に日本は家族間のトラブルは身内で処理をしろと言われますが、家庭に問題があるのに家に帰そうとするから虐待死などが起きてしまう。英国には『子どもは社会が育てるもの』という考えが浸透しています。様子がおかしい動物や子どもがいたら、すぐに通報するし、大人の事情よりも小さき者たちの安全を考えて公的機関が保護する。見て見ぬふりをしないこと。子どもに信用される大人を増やすことが社会への信頼を増すことです。そうした考えが広がれば、悲劇を防ぐことができると思います」

□ブレイディみかこ(ぶれいでぃ・みかこ)1965年6月7日生まれ。学生時代にロックに魅了され、高校卒業後に渡英を繰り返す。96年から英国・ブライトンに在住。「子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から」(2017年)で新潮ドキュメント賞を受賞。「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」(19年)で毎日出版文化賞特別賞、Yahoo!ニュース | 本屋大賞 ノンフィクション本大賞などを受賞した。ライター、コラムニストとして活躍。水泳、飲酒などが趣味。

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