【懐かし64東京五輪】高校2年だったせんだみつおは五輪観戦よりも夜遊びに夢中だった

東京五輪がいよいよ開幕し、ゴタゴタの多い五輪とはいえ、テレビを見ながら選手らの激闘に元気をもらっている人も多いのではないか。新型コロナウイルス禍でお祭り騒ぎができず、日本開催の実感は今ひとつないが、前回1964年の東京大会はどうだったのだろうか。東京育ちで、野球などのスポーツが好きなせんだみつおさん(73)に、当時の思い出を聞いてみた。

「ナハ! ナハ!」のギャグで知られるせんだみつおさん【写真:ENCOUNT編集部】
「ナハ! ナハ!」のギャグで知られるせんだみつおさん【写真:ENCOUNT編集部】

自宅にはテレビがなかった

 東京五輪がいよいよ開幕し、ゴタゴタの多い五輪とはいえ、テレビを見ながら選手らの激闘に元気をもらっている人も多いのではないか。新型コロナウイルス禍でお祭り騒ぎができず、日本開催の実感は今ひとつないが、前回1964年の東京大会はどうだったのだろうか。東京育ちで、野球などのスポーツが好きなせんだみつおさん(73)に、当時の思い出を聞いてみた。(取材・構成=中野裕子)

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 64年の東京五輪のときは、僕は高校2年生。18歳年上の兄はもう家を出ていたので、荻窪に両親と3人で住んでいました。オヤジは日本パルプ工業(現・王子ホールディングス)に勤めるサラリーマン技師でしたが、当時は家にテレビがない家庭は珍しくなく、僕の家もまだテレビがなくて、10月10日の開会式は近所のよく行く中華そば屋「三ちゃん」のテレビで見た記憶があります。

 友達と大好物だった親子丼か何かを食べて、「あー五輪が始まったんだ~」「これが五輪か~!」「なんで五輪って言うのかな」なんて言いながら見ていました。近所のオバサンで国立競技場の開会式を見に行った人がいて、興奮して大騒ぎしていましたよ。ウチは両親ともに人が大勢集まる所に行くのが嫌いだったから、五輪どころか万博やお祭りにも連れて行ってもらった記憶はありませんけどね。

 五輪はその中華そば屋か、テレビがあった隣の家でニュースを見せてもらったくらいかな。水泳、フェンシング、マラソン、“鬼の大松”のバレーボールとかが印象に残っています。僕自身は中学時代、野球部で、高校は野球の盛んな法政一高に進んだから野球部は避けて、オフクロに「背が伸びるから」と勧められたバスケットボール部に入りました。高校3年間ずっと補欠で、部室でボール磨きばっかりしてましたけど、真面目に練習に出ていましたよ。頭は丸刈りで(笑)。でも、東京五輪では野球はなかったし、バスケは日本は強くなかったから、あまり注目して見た記憶はないですね。

修学旅行では学友と柔道や棒高跳びを夢中で見た

 そういえば、五輪期間中に京都や奈良に修学旅行に行った旅行先の旅館でも、学友とテレビで見ましたね。法政一高は当時は男子校で、僕はひょうきんなお調子者だったから、修学旅行は枕投げに始まって、ずいぶん羽目を外して楽しみましたよ(笑)。そんななか、テレビでちょうど柔道や陸上棒高跳び(当時は男子のみ)が行われていたんですよ。柔道は日本の神永昭夫選手がオランダのへーシンクって巨漢の選手に抑え込まれちゃって。お家芸がやられて悔しかったですねぇ。

 棒高跳びは米国の選手とドイツの選手が9時間超の長時間、夜遅くまでかかって激しい金メダル争いをしていました。鳥みたいに高く飛ぶもんだから、みんなで「お~」と言いながら、テレビにくぎ付けになっていました。僕はあの棒がなんであんなに曲がっても折れちゃわないのか、不思議で仕方がありませんでしたけど(笑)。後で知ったら、あの東京大会からグラスファイバー(ガラス繊維)製のポールが採用されたんですってね。

 それから、何と言っても男子マラソンです。アベベというエチオピアの選手がはだしで走って、余裕で金メダルを取ったから、「すごい人だな~。足が痛くないのかな」なんてビックリ。どこかのおじいさんが心配して「靴を買ってやったらどうだ」って言ってましたが(笑)。え? 東京五輪では靴履いてた? はだしで走ったのは、その前のローマ? こりゃ失礼! ナハ! ナハ! 日本の円谷幸吉選手は3位に入ったんですけど、その次のメキシコ五輪を前に自殺しちゃいましたよね。「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」という遺書を残して。僕は多感な年頃だったから、すごくショックでしたよ。

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