射駒タケシが歩んだパチスロライター黎明期 “兄貴分”が築いた『必勝本』の空気感
関西で生まれ育ち、気づけば仲間たちとパチンコ・パチスロに明け暮れていた。「俺、何してんのかな?」と疑問を抱いて上京するも、結局はパチスロばかり打つ日々だった。一時期は偶然、街で出会った地元の先輩に誘われてイタリア料理店に助っ人として勤務。技術介入機『クランキーコンドル』がデビューしたことで、再びパチスロメインの生活に戻ると、知人からの紹介でパチスロライターへの道に進んだ。業界歴約30年のベテラン・射駒タケシ。『パチスロ必勝本』(辰巳出版)でキャリアをスタートさせてからは、どのような仕事に関わったのだろうか。

テレビ番組がスタートも…当初は「パチスロ打つだけの動画の何がオモロいの?」
関西で生まれ育ち、気づけば仲間たちとパチンコ・パチスロに明け暮れていた。「俺、何してんのかな?」と疑問を抱いて上京するも、結局はパチスロばかり打つ日々だった。一時期は偶然、街で出会った地元の先輩に誘われてイタリア料理店に助っ人として勤務。技術介入機『クランキーコンドル』がデビューしたことで、再びパチスロメインの生活に戻ると、知人からの紹介でパチスロライターへの道に進んだ。業界歴約30年のベテラン・射駒タケシ。『パチスロ必勝本』(辰巳出版)でキャリアをスタートさせてからは、どのような仕事に関わったのだろうか。(取材・文=濱マモル)
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「芸能事務所に入っていた時に、舞台の脚本とか書いてたのよ」
リーチ目のチェックなどを経て、編集長の提案で漫画『やんちゃブギ』の原作を担当。当初は「やりたくなかった」ものの、イタリア料理店で働いていた時の友人に、半ば強引に入れられた芸能事務所での経験が役立った。
「最初にいっぱい添削されて、気づいたら書けるようになってた。添削されても『そりゃそうやろ』って思ってたし。『日本語が下手くそやな』って思っても、それを修正する能力がないから。出すしかない。自分で気づいてるけど、『どうしたらええんやろう』って」
漫画の連載開始とともに、『パチスロ必勝本』でも“射駒タケシ”としてライター活動を本格的に始動した。無記名でのライターを、1年ほど経た後のことだった。
「1996~97年は無記名でやってて。漫画は98年からやから。ライターは今年で30年!? ながっ! どうせ、すぐ終わると思ってた。人生、分からんよね」
文筆業と並行して、この頃からCS放送の番組にも出演する。
「99年くらいにはMONDO TVで旅打ち番組をやってた。漫画で4号機の『アレックス』を紹介した時に、プロデューサーの人が『アレックス』の面白い打ち方とか、魅力を語ってくれる人を探してて。みんな、あんまり『アレックス』を打ってなかったし。それで『やりませんか?』って言われて。『えっ!? 俺が?』って思った。『パチスロ打つだけの動画って、何が面白いの?』って。だって、そういうのはなかったし、当時。『誰が見るんかな』って思ってた。
ほんで、俺は断ろうと思ったけど、編集長が『やりなよ、やりなよ』って。やっぱ、(雑誌のライターが)人気になってほしいっていう気持ちがあるからね。『じゃあ人生何事も経験だし、やりますか』って感じ。2~3年やったかな」
2000年には現・パチンコ★パチスロTV!の前身、BiGチャンネルが開局する。
「そこでもオファーをもらって、自分の実戦番組をやった。それが20年続いたかな。長いよね。当時はだって、MONDO TVで旅打ち番組やってた時とかも、パチスロライターっていうのをほとんどの人が知らないし。『パチンコ屋にカメラがあるぞ?』みたいな。『これ、何やってるんですか? 芸能人ですか? 俳優さんですか?』ってよく言われた。説明が面倒くさいから『そうです』って。『パチスロライターです』って言っても分からへんし。『お笑いの方ですか?』って言われても、『そうです』って返してた」
パチスロ人気と共に『パチスロ必勝本』の規模も拡大「業界に人が増えた」
00年12月には、サミーの4号機『獣王』が登場。パチスロは爆裂AT機時代へと突入する。それに伴い、パチスロ人気が急上昇。雑誌の売り上げも激増する。
「たかがライターなんで、雑誌が売れてるとかは正直、分からへんけど、業界に人が増えたな……と。人が増えてるってことは盛り上がってるってことじゃない? 気づいたらすごい人が増えてた。『パチスロ必勝ガイド』(ガイドワークス)もそうやし、うちもそうやし。『パチスロ攻略マガジン』(プラントピア)も。毎月のように人が増えていってるような感覚だった。うちが一気に増えたのは嵐とか梅屋(シン)とか、あの辺が入った時やから。『北斗の拳SE』とか、たぶん、あの辺やったと思うねんな。梅ちゃんはもうちょっと後かな。嵐は、初めて地方に自分の企画で連れて行ってあげて。その時に『北斗の拳SE』を打った記憶がある」
後輩が増えると、面倒見の良さから兄貴的存在へと立場は変化。頻繁に後輩たちと飲みに行くようにもなる。
「純粋に後輩をかわいがるなんて気持ちは正直、別になかった。ただ、やっぱり飲みに行くのは好きやし、みんなと行った方が楽しいから。『飲みに行こう!』ってよく連れて行ってただけ。たしかに、ガイドやマガジンの人たちは『みんなで飲みに行く』ってあまり聞かなかったな、昔は。だから、うちは仲が良かったんじゃない? 当時の他誌と比べたら。まぁ俺がずっとこんなやし。普通に『飲みに行こうぜ』みたいな感じやし。『旅行しようぜ』って行ったりしてたし、10人くらいで」
当時は、インターネットが普及する前。情報源は雑誌がメインで、各パチスロ誌がしのぎを削っていた。
「ガイドにはマッパチ(ザ・マッドパチスロブラザーズ)がいて、マガジンにはしのけんがいて。面白かったよね。マガジンが一番、独特やったよね。何て言うのかな、明るさはあんまりなかったよね。そんな飲みにも行ってないみたいだし。誰と誰が仲いいって感じもないし。でも、他誌で一番最初に仲良くなったライターはしのけんやね。98年くらいじゃないかな。最初は飲みに行って。『あそこの店が今いいよ』みたいにお互い情報交換してた」
かつて新宿東南口にあり、「パチスロのデパート」とも称されたパチスロ専門店「グリンピース新宿本店」。その小冊子の制作に、パチスロ必勝ガイドのライター・アニマルかつみと携わったこともあるそうだ。
「当時の店長が、俺とお兄さん(アニマルかつみ)で『やってほしい』って言われて。食事会を開いてくれて。それも、2000年になってない頃ちゃうかな。2人で朝まで飲んだ記憶があるな。当時は他誌とのつながりは全くなかった。それこそ、新台発表会で会っても、あいさつもしないしね、お互い。嫌いとかやないけど。編集部同士が仲悪かったんよね。すごい嫌ってる感じがあった。ライターは別に、そんなことなかったのに。ただ、他の雑誌の人たちとは一番会ってたと思う。CSでトーク番組をやってて、それにゲストで出てもらったりして。ほとんどは初対面だったけど、いろんな人と交流ができていったんよね」
“射駒タケシ”として本格的にパチスロライターデビュー後は、CS放送の番組にも出演。専門チャンネルの実戦番組は、なんと20年も続いた。後輩には慕われ、ライバル関係にある他誌とのライターとも親交が深い。実力もさることながら、その人柄も、長きに渡って第一線で活躍し続けられる要因のひとつなのではなかろうか。
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