【プロレスこの一年 ♯5】昭和のプロレスが輝いていた1983年 猪木とホーガン、長州と藤波、カブキブームにテリーの引退
テリー・ファンクの引退ツアー、ハンセン&ブロディ組が最強タッグ優勝
新間氏は当時、「プロレスブームではなく新日本ブーム」と豪語していたが、新日本でプロレスに熱狂したファンが全日本を見るようになったのもまた事実である。テレビ朝日が金曜夜8時の「ワールドプロレスリング」で視聴率20%超えを何度も記録すれば、全日本を放送する日本テレビは土曜夕方のレギュラー枠に加え、この年には4回、週末のゴールデン枠で拡大時間の特番を組んだ。
カブキ人気でスタートした83年、中盤はテリー・ファンクの引退ツアーが多くのファンを動員した。引退試合は8月31日の蔵前で、兄ドリーファンクJrとのザ・ファンクスがスタン・ハンセン&テリー・ゴディと対戦。最後はテリーが初来日のゴディをフォールし、「フォーエバー!」を涙の連呼。有終の美を飾ったのだが、その後復帰する。
この日、ジャンボ鶴田はブルーザー・ブロディとの熱戦を制しリングアウト勝ちで悲願のインターナショナルヘビー級王座を獲得。一方、馬場は9月8日の千葉でハンセンにPWFヘビー級王座を明け渡した。年末の「‘83最強タッグ決定リーグ戦」は、ハンセン&ブロディが鶴田&天龍源一郎を破り優勝。決勝がおこなわれた12月12日の蔵前ではカブキがリック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦。勝利をおさめるも反則により移動なし、フレアーがNWA王者らしい戦いぶりで防衛に成功した。
この年を総合すれば、絶頂の新日本が激動含みなら全日本は高値安定か。また、アメリカでは12月26日、アイアン・シークがボブ・バックランドを破り、WWFヘビー級王座がまさかの移動という事件が起こった。これは結果的に翌年のWWF全米侵攻戦略に直結する。84年1月、シーク政権はあっけなく日本で実績を作ったホーガンに引き継がれた。ホーガンを世界的スーパースターに押し上げるきっかけが、83年のIWGPにあったとしても過言ではないのだ。