大学教授になった元アイドル・芳本美代子「反省と勉強の繰り返し」「教える立場も悪くない」

1980年代にアイドル歌手としてブレークした芳本美代子が今年、大学教授としてのキャリアをスタートした。メディア・芸術学科の教授として学生たちに演技を教えている。15歳で芸能界入りし、売れっ子アイドルとしてあわただしい日々を送った。20歳を過ぎて俳優の道へ。舞台に魅了され、今では演出家、大学教授の肩書も加わった。芳本が語った半生の「後編」は、現在の活動、プライベート。

アイドル卒業から現在までを振り返ったみっちょん【写真:山口比佐夫】
アイドル卒業から現在までを振り返ったみっちょん【写真:山口比佐夫】

YouTubeには娘も登場「今は友達みたいな関係」

 1980年代にアイドル歌手としてブレークした芳本美代子が今年、大学教授としてのキャリアをスタートした。メディア・芸術学科の教授として学生たちに演技を教えている。15歳で芸能界入りし、売れっ子アイドルとしてあわただしい日々を送った。20歳を過ぎて俳優の道へ。舞台に魅了され、今では演出家、大学教授の肩書も加わった。芳本が語った半生の「後編」は、現在の活動、プライベート。(構成・文=福嶋剛)

 21歳のときに出演したミュージカル『阿国(おくに)』で、第28回ゴールデン・アロー賞・演劇新人賞を受賞しました。そこから、芝居の道が開けてきました。10代の頃は、特に演技に興味があったわけではなく、アイドルに合った役のドラマやバラエティー番組のコントをやるくらいでした。演技はめちゃくちゃ下手でしたし、マネジャーから「初めて舞台のお仕事が決まった」と言われても、いつものように「そうなんですね」と深く考えないで引き受けていました。

 稽古場に行くと、ものすごい熱量でした。今で言う「ガチの現場」で、怖くなっちゃったんです。他の役者さんが、どんどん役を作り上げていくのを横目で見ながら、私は演出家の先生に手取り足取り子どものように教わっていました。歌、せりふ、舞台の動き、スポットライトの位置、全てを覚えるだけで精いっぱい。何もできない恥ずかしさに耐えきれず、途中で自分に対して笑ってしまうくらい追い込まれてしまいました。「芝居は無理だ」と思い、逃げたくなり、稽古場に行くことを拒否していた私はマネジャーに手を引っ張られながら現場まで連れて行かれました。

 こうなったらとにかく必死に先輩方の演技を見ていこう。何とか覚えながら「せめて歌だけは周りの足を引っ張らないように頑張ろう」と開き直りました。そして、初日の舞台を乗り切って幕が降りた瞬間、号泣しました。

 コンサートは1人の世界だけど、舞台は何人もの役者さんが切磋琢磨(せっさたくま)したり、助け合ったりしながら作り上げていく。「この世界はすごく私に向いている」と感じました。千秋楽を迎えて、『もう、終わっちゃうのか』と。あれだけ稽古に行くのが嫌だった私が、いつの間にか舞台の魅力に引き込まれていました。

「もっとたくさん舞台をやりたい」。その思いで次はシェイクスピアの『夏の夜の夢』に挑戦して、さらに大きな壁にぶつかりました。出演者は小日向文世さん、渡辺いっけいさん、ピーターさん、夢の遊眠社のみなさんとそうそうたる方ばかりで、演出家さんから「好きにやってください」と言われたものの、余計にハードルが上がり、稽古場で何もできなくて悩んでいました。そんな時、出演者の円城寺あやさんに私の役どころや演技のポイントなど教えていただきました。他の先輩方にも助けてもらい、そこも何とか乗り越えることができました。そして、その結果、『阿国』でゴールデン・アロー賞をいただくことができました。自分が頑張ったことよりも、私を次のステージに導いていただいたことにすごく感謝しました。

 俳優を続けていく中で、演出の話をいただき、若手俳優の劇団で演出を担当することになりました。やってみると、これがまた大変でした(笑)。一番苦労したのは、演出家の思いをどうやったら役者のみなさんに伝えられるかで、言葉では伝えにくい時は私が実際に演技をして伝えたり、いろいろと試しながら学んでいきました。そのかいあって、演出を通して作品の意図や全体像を客観視できるようになりました。

 今年の春には、大阪芸術大短期大学部の教授に就任。私にとって、大きな転機が訪れました。

 もともとこの大学のメディア・芸術学科の教授として学生たちに演技を教えていたのが私の先輩、加納竜さんでした。最初は「サポートをしてほしい」と加納さんからお声がけいただき、「私で良いのかな?」と思いながらエントリーしました。大学の先生方からは「学生たちが芳本さんから直接演技を学べる環境を作りたい」というお話をいただき、決まったときには何と「教授」という肩書き。ただただ、ビックリでした。

 学科には約30人の学生がいて、私は週に1度、加納先生のサポート役として演技の授業を行っています。プロの指導とは違い、学生さんにお芝居の楽しさを知ってもらうのが目的なので、テキストや黒板は使わず、台本を渡して「演出家の注文にどう応えるか」といった声の出し方、表現方法などを分かりやすく教えています。前期はオーディションを受けるための履歴書の書き方やプロフィール写真の撮り方も教えました。私たちの時代とは違い、コンプライアンスに沿った教え方など、今年は初めてのことばかり。毎回、行き帰りの新幹線の中で勉強と反省を繰り返しています。

「娘にとっては母親というより父親役だったかも」【写真:山口比佐夫】
「娘にとっては母親というより父親役だったかも」【写真:山口比佐夫】

自身のYouTubeチャンネルに母娘で出演

 不思議なんですけど、私は子どもを産んでから人との接し方が変わり、性別で人を判断しなくなりました。役者さんに対しても同じで、人間的な魅力とかユニークな個性を見抜くことが得意になりました。いつもはおとなしい学生なんだけど、演技をさせるとものすごく生き生きと見えたりして、「教える立場も悪くはないな」と思います。

 この前、うちの学生がご両親に「芳本美代子先生に教えてもらっている」と言ったら、「みっちょんに教わっているの? すごいね」と言われたそうです。学生は「先生、『みっちょん』って呼ばれていたんですか?」と言っていました(笑)。オープンキャンパスでも親御さんと一緒に来る高校生も多くて、帰りに親御さんから「握手してもいいですか」って。娘と同い年くらいの学生たちなのでみんなかわいいですよ。いつか舞台で一緒になる日が来たら、泣いちゃうかもしれません。

 プライベートではYouTubeチャンネル「みっちょんINポッシブル」を3年くらいやっています。画面に映る私は完全に素です。“見えるラジオ”みたいな感覚で、自由にやっていてます。デアゴスティーニの車を創刊号から100号まで必死になって組み立てたり、ゲストを呼んでフリートークしたり、ネタが尽きたら視聴者に企画を募集したりです。挙句の果てにはこの前、娘に出てもらいました(笑)。

 娘は来年に大学を卒業します。小さい頃は私が忙しくて、両親が親代わりでした。仲はとっても良くて、「ママ」と呼んでくれますが、今は友達みたいな関係かもしれません。よく稽古場に連れて行ったり、一緒にカラオケに行ったりもしました。この前、娘から『白いバスケット・シューズ』と『雨のハイスクール』を歌ったカラオケの採点画面の写真を送ってきて、「私の歌を覚えたんだな」って(笑)。私が歌っていた頃のYouTubeも見ていますし、あの頃の私よりも大きくなりましたね。

 子育てで大切にしてきたのは、「自分の主張を一方的に伝えるんじゃなくて、相手の主張もちゃんと聞いた上で判断しなさい」と言ってきたと思います。おばあちゃん(私の母親)が母親代わりで娘に優しく接してくれる分、私は父親役として厳しかったかもしれません。

 私が娘と同い年の頃、脱アイドル的なイメージでタレントや俳優へと変わろうとしていた時期だったので、「みっちょんという呼び名を封印しようか」という話がありました。でも、「みっちょん」を使い続けて良かったと思っています。今頃、この歳になって「一番、みっちょんが私に合っているな」と自分でも感じます。

 来年は「学校の授業風景をYouTubeで紹介できたらな」と思っているんですが、学生たちには今まで通り芳本先生と呼んでもらうか、YouTubeのときだけ『みっちょん』と呼んでもらうか、ちょっと悩ましいところですね(笑)。

□芳本美代子(よしもと・みよこ)1969年3月18日、山口・宇部市生まれ。83年、『第5回福岡音楽祭・新人登竜門ビッグコンテスト』の出場を機にテイチクレコードにスカウトされ、85年3月21日に『白いバスケット・シューズ』で歌手デビュー。所属事務所の先輩・石川秀美の妹分として売り出された。90年、ミュージカル『阿国』に出演。第28回ゴールデン・アロー賞・演劇新人賞を受賞。現在は俳優業の傍ら、演出も手掛けて若手育成に力を入れている。今年4月、大阪芸術大短期大学部メディア・芸術学科教授に就任。前夫との間に1女をもうけ、2016年に再婚。

大阪芸術大学短期大学部 公式HP:https://osaka-geitan.jp

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