【THE MATCH】天心VS武尊直前、「完全決着ルール」の盲点 判定での炎上を回避するには

「THE MATCH 2022」(6月19日、東京ドーム)が目前に迫ってきたが、過日、一部メディアに正道会館の石井和義館長による、同大会に関する記事が掲載された。そこには昨今のフジテレビによる放送撤退を含め、さまざまな持論が展開されていたが、一つ目をひいたものがあった。那須川天心VS武尊戦に「ドロー」裁定を用いてはどうか、という提案である。今回はこれに焦点を当てて論じてみる。

天心―武尊、問われる観る側の“覚悟”
天心―武尊、問われる観る側の“覚悟”

「ドロー」という前振り

「THE MATCH 2022」(6月19日、東京ドーム)が目前に迫ってきたが、過日、一部メディアに正道会館の石井和義館長による、同大会に関する記事が掲載された。そこには昨今のフジテレビによる放送撤退を含め、さまざまな持論が展開されていたが、一つ目をひいたものがあった。那須川天心VS武尊戦に「ドロー」裁定を用いてはどうか、という提案である。今回はこれに焦点を当てて論じてみる。(文=“Show”大谷泰顕)

 いよいよ秒読みとなってきた「世紀の一戦」と呼ばれる天心VS武尊だが、そこには「完全決着」がうたわれている。それは、どんな試合内容になろうとも、白黒つけるということだ。

 これに関して石井館長は独自の見解を示す。

「だから僕はどんだけ片方が押していようが、ダウンがないならドローでいいと思ってるんですよ。選手が(完全決着にしたいと)言ったとしても『だったらダウンを取ればいい。ダウンを1回も取れなかったら、お前らが悪いんちゃうんかい』と言えばいい。だって、ドローなら何十年も語られるんですよ? 実際、(アントニオ)猪木、(モハメド)アリ戦も引き分けだったからこそ、語られ続けているわけでしょ?」

 実を言うと、この見解は非常に興味深い。今さら何を言っているんだと思う方がいるかもしれないが、この「ドロー」という視点を、今こそ勝負事に関わる関係者は、シリアスに考え尽くさなければいけないのではないか、と考える。

 たとえば、2001年大みそか、さいたまスーパーアリーナで「猪木軍対K-1軍」による対抗戦が行われた。この日は格闘技界初となる地上波の大みそか中継だったが、試合は5分3RのMMAルールを採用し、フルラウンドを闘った場合、判定は行わない方式が取られた。結果、全7試合のうち、前半戦4試合はすべてがドロー。当然、会場中を独特な空気が支配した。

 しかしそのフラストレーションもあって、後半3試合がすべて一本、もしくはKO決着になると、「観る側」の開放感が爆発した。特にメインでは大方の予想をくつがえし、安田忠夫がジェロム・レ・バンナに勝った瞬間は、会場全体のボルテージが最高潮に達し、結果的にテレビの視聴率も平均14.9%を弾き出し、民放第1位を獲得した。それこそが「大みそかは格闘技」という現在の流れをつくった瞬間だった。

 要は「ドロー」という前振りがそれを導き出したのだ。

ドロー裁定を熟知したグレイシー一族
ドロー裁定を熟知したグレイシー一族

白黒つける意味とは?

 もうひとつある。

 あれは1992年10月23日、日本武道館。高田延彦が北尾光司と一騎討ちを闘った際、試合前の段階では、3分5Rを闘って、決着がつかなかった場合はドロー、というアナウンスがあった。北尾がそれを望んでいたという。実際、その場にいる多くの観客が「ドロー」を予想したが、結果は高田が北尾をハイキックでKO。高田が一気に時代の寵児(ちょうじ)にかけ上がった。

 これも、事前の「ドロー」という前振りがあったことで、それを実力で回避させた高田に時代は味方をしたのである。

 逆に「ドロー」裁定を用いるべきだったのでは? と思うパターンもある。

「UWF最後の闘い」

 2008年大みそかにさいたまスーパーアリーナで行われた、田村潔司VS桜庭和志戦はそう呼ばれていたが、その日のメインで行われた一戦は、結果的にフルラウンド闘った末に、田村がフルマークの判定で桜庭を下すことになった。

 実はこの試合、天心VS武尊に酷似している点が存在した。天心VS武尊は、天心が武尊に対戦を表明してから7年の月日を要したが、田村VS桜庭戦は、それまで実に5年間、田村が桜庭戦を拒否したために、試合内容以上にその決着の仕方が注目されていた。

 だが、今思えば田村VS桜庭戦に白黒つける意味があったのか。記者はこの時、田村側でこの試合に深く関わっていたが、同時代を生きた桜庭にも強い思い入れを持っていたし、なぜ「フルラウンド闘った場合は判定をつけずにドロー」を神様が選択してくれなかったのか。未だに悔しい思いを持っている。

 つまり冒頭の石井館長の言葉を借りれば、「ドローなら何十年も語られるんですよ?」を関係者が、もう少し議論すべきではなかったのか。未だにそう思わずにはいられない。総合的に判断すれば、目的を「語り継がれる」に設定した場合、不透明さが求められるのではないか、と思えてしかたがない。いわば余白のようなものをいかに介在させるか。その点にもっと注意深くなることが重要な気がしてならない。

 ちなみに「ドロー」のすごみを熟知した人たちが存在していることをご存知だろうか? それこそがグレイシー一族になる。

 それを象徴する試合が、2003年大みそか、さいたまスーパーアリーナで行われた、吉田秀彦VSホイス・グレイシーとの再戦だった。この試合、グレイシー側の要望で、最初からドロー裁定が採用されていたが、その時点でグレイシー一族が近代スポーツを拒否していることが伝わってくる。

 グレイシー一族の場合、護身術の観点から、意識的に負けない闘いをしてしまっているのかもしれないし、仮の話、ドロー裁定のある試合が一般的になったとしたら、格下の選手が最初から勝利ではなく、負けないことを選ぶ可能性も出てくるだろう。そうなった場合は本末転倒になる。

天心VS武尊は「観る側」も自由奔放かつ品性を

 試合とは勝負事である。だからこそ、常に勝つことを目指すべきであり、結果としてフルタイムになってしまった、という体裁だけは整えておくものだと思う。だからこそ、結果的にドローになってしまった、というエクスキューズ(言い訳)だけは持っていないと、勝負事そのものをおかしくしてしまう。

 その点でいえば、イベントにおける「ドロー」裁定とは頻繁に行うものではなく、ここぞという時に用いる試合形式であり、安易に連発するものではないと考える。

 結果的に吉田VSホイスの再戦は、内容でホイスが吉田を圧倒し、試合を終えた。もちろん、試合結果は「ドロー」だったが、誰が見ても吉田に深いダメージがあり、その場でこの試合を観ていた誰もが、勝ったのはホイスだと知っている。そんな試合だった。

 これにより事実(結果)と真実(内容)が二重構造になっていたが、このあいまいな感覚が非常に日本的というか、新鮮であり、驚愕(きょうがく)の試合だった。

 もちろんそれはグレイシー一族が計画的になのか戦略的になのか、もしくは感覚的にそうした視点を持っているのか。それは定かではないが、日本から地球の裏側にあるブラジルに伝わった柔術を起源とするグレイシー柔術は、自然と日本的な思想や概念、そして独自の視点を持つことになったに違いない。

 さて、そんなところで天心VS武尊戦だが、先述通り、最初から「完全決着ルール」と謳っているように、今からドロー裁定を用いるのは無理がある。現実論としてもそれは難しいだろう。

 冒頭に用いた石井館長の記事においても、第三者(タイ人)のレフェリーとジャッジを採用することを提案しているが、たしかにそれならば、KO決着ではない僅差の勝負だった場合、結果により炎上するリスクを軽減できる可能性は、日本人のレフェリーとジャッジを採用するよりも軽減する可能性は高い。

 とはいえ、実際にそうならなかったとしても、今回が「世紀の一戦」である限り、レフェリーやジャッジに任命された人物は、これ以上ないほどの重圧を課せられるに違いない。

 ならば、どんな結果が待っていようと、それなりの覚悟はしているだろうが、そんな覚悟を持った人たちが彩るリング上には、「観る側」もそれなりの覚悟を持って臨むべきではないか。まとめるなら、軽々に揚げ足を取るなりせず、自由奔放かつ品性を持って、天心VS武尊を見届ける。今回は特に、そんな心持ちでいたいものである。

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