東京女子プロレス旗揚げからのエース山下実優が考える「レスラーとしての強さ」とは
東京女子プロレスを旗揚げ戦からエースとして支えているのが、山下実優(やました・みゆう)だ。彼女はもともと空手少女だった。身体を動かすことが好きで、アクション女優になりたいと思っていた。モーニング娘。を知ると、アイドルに憧れた。AKB48の登場で、自分も「人前で唄ったり踊ったりしたい」と考えるようになる。格闘技とアイドル、女の子としては一見対照的なジャンルだが、人前でパフォーマンスするのは同じ。そういった部分で、女子プロレスは彼女にとってもっとも適した職業なのかもしれない。
空手少女がレスラーを志すきっかけはDDTの「お客さんとの一体感」
東京女子プロレスを旗揚げ戦からエースとして支えているのが、山下実優(やました・みゆう)だ。彼女はもともと空手少女だった。身体を動かすことが好きで、アクション女優になりたいと思っていた。モーニング娘。を知ると、アイドルに憧れた。AKB48の登場で、自分も「人前で唄ったり踊ったりしたい」と考えるようになる。格闘技とアイドル、女の子としては一見対照的なジャンルだが、人前でパフォーマンスするのは同じ。そういった部分で、女子プロレスは彼女にとってもっとも適した職業なのかもしれない。
とはいえ、プロレスラーになる選択肢は当初まったく持っていなかった。その話をもらったときは、むしろK-1やPRIDEの全盛期。観戦するのは主に格闘技の方で、女子プロレスの存在を知ってはいたけれど、まさか自身でやることになるとは夢にも思っていなかったのだ。しかし、DDTの“大社長“高木三四郎の話を聞いているうちに、次第に興味が沸いてきた。「タレント業も先々できるようになるかもよ」という殺し文句(?)が決め手となった。「そこからあらためてプロレスを見に行ってみたら、楽しそうだなって思えたんです。最初は女子プロレスを見て、そこからDDTに行きました。お客さんとの一体感がすごくて、想像以上に楽しそうだなって」。
とはいえ、完全な手探り状態からのスタートだった。山下だけではない。東京女子には既存の先輩レスラーがいなかった。設立会見でも新人ばかり3人が出席。マットプロレスで試運転をし、DDTの両国国技館大会という大舞台でデビュー。しかし、本人からすれば会場の規模はまったく関係なかったのではなかろうか。とにかく目の前の課題で精一杯。「とにかくすべてがわからなすぎて、言われたことをやるみたいな感じでした。“行きなさい“といわれたところに行く、“やりなさい“と言われたことをやる。その繰り返しでしたね」 。
周囲がエースと囃し立てても、それほど気にはならなかった。そもそもプロレス団体のエースを理解できなかったし、聞こうともしなかった。「おそらく心のどこかでちょっとプレッシャーに感じていたから、あえて考えないようにしていたのかもしれないですね」というのもひとつの理由だった。
旗揚げからの6年間で、山下は2度、東京女子が創設したプリンセス・オブ・プリンセス王座(プリプリ王座)を獲得した。東京女子の頂点ベルトだ。1度目は多くの初戴冠レスラーがそうであるように悩んだ時期だった。が、2度目の戴冠では10度防衛という記録を達成、「絶対王者」の称号にふさわしい闘いぶりで「エース山下」は東京女子の「強さの象徴」にもなった。やはり強さは山下のこだわり。その部分には一切の妥協を許さない。ただし19年11月3日、DDTグループが集結した両国国技館で、山下は”別の意味での強さ”を知ることとなる。ケニー・オメガ(AEW)&里歩組VSアントーニオ本多&山下実優組のタッグマッチ。DDTに帰還したケニーから直々に指名されたのだ。さらに試合では本多から多くを教わったという。直接指導を受けたわけではないが、本多の闘いぶりから多くを得た。気づいた山下はあえて「教わった」と、表現する。
「“強さ“って私の場合、空手をベースにしたものだと思っていたんですけど、”強さ”にもいろいろあるなって。”見せる部分の強さ”っていうんですかね。単純に蹴りが強いとか、見た目が強そうとかは、自分でも想像できる。だけど”強い中での面白さ”だったりとか、あの両国の空間に合わせてお客さんが求めるものを瞬時に読み取って闘いながら出していくという、そういった強さを知ったんです。そういったものをすごくあの試合で教えていただきました。”新たな強さの種類”を見つけられたんじゃないかなって思ってます」。アントンのごんぎつねは“ストロングゴンギツネ”――。