菅沼孝三さん追悼インタビュー プロのドラマーとして最後まで大切にしていたこと

日本を代表するドラム奏者の菅沼孝三さんが昨年11月8日に死去した。享年62歳。ちびっこ天才ドラマーとして10歳で登場し、15歳でプロに。その独創的な演奏スタイルから「手数王」(=てかずおう)と呼ばれ、日本を代表するドラマーとして国内外で活躍した。後年はドラミングの技術追求に止まらず、インディアンフルートやボイスパーカッションなど新たな出会いと挑戦を繰り返しながら後進の指導にも力を注いだ。誰よりも音楽を愛し、誰に対してもユーモアを忘れないサービス精神旺盛な人柄で、数多くのミュージシャンや関係者、音楽ファンに慕われていた。筆者は2007年、都内にあった音楽学校で取材を行い、プロのミュージシャンとしての心構えや音楽の楽しさを分かりやすく語っていただいた。そんな大切な言葉の数々を残したいと思い、関係者、ご家族のご協力のもと、再構成した。偉大なるミュージシャンに哀悼の意を表して。

2021年9月、菅沼孝三さん最後のステージとなった金沢ジャズストリートの1枚【写真提供:(C)Kozo Suganuma】
2021年9月、菅沼孝三さん最後のステージとなった金沢ジャズストリートの1枚【写真提供:(C)Kozo Suganuma】

ちびっこ天才ドラマーの原点は近所の工場の「兄ちゃん」だった

 日本を代表するドラム奏者の菅沼孝三さんが昨年11月8日に死去した。享年62歳。ちびっこ天才ドラマーとして10歳で登場し、15歳でプロに。その独創的な演奏スタイルから「手数王」(=てかずおう)と呼ばれ、日本を代表するドラマーとして国内外で活躍した。後年はドラミングの技術追求に止まらず、インディアンフルートやボイスパーカッションなど新たな出会いと挑戦を繰り返しながら後進の指導にも力を注いだ。誰よりも音楽を愛し、誰に対してもユーモアを忘れないサービス精神旺盛な人柄で、数多くのミュージシャンや関係者、音楽ファンに慕われていた。筆者は2007年、都内にあった音楽学校で取材を行い、プロのミュージシャンとしての心構えや音楽の楽しさを分かりやすく語っていただいた。そんな大切な言葉の数々を残したいと思い、関係者、ご家族のご協力のもと、再構成した。偉大なるミュージシャンに哀悼の意を表して。(インタビュー・構成=福嶋剛)

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 1959年(昭和34年)大阪で生まれた菅沼さんがドラムと出会ったのは小学生の頃だった。

「僕の母親がクラブ歌手だったので子どもの頃から音楽であふれていたんです。そんな中、8歳の頃にGS(=グループサウンズ)ブーム、ビックバンドブームがやってきて、僕の中で一番目立って見えたのがドラムだったんです。それで近所の質屋に置いてあったドラムセットを母親にねだって買ってもらったんです」

 ドラムを手に入れてたった2年でどうやって「天才ちびっこドラマー」と呼ばれるまでの演奏技術を身に付けたのか? そのきっかけは家のすぐ近所にあった。

「当時近所にあった工場で休憩時間にドラムをたたいていた兄ちゃんがいたんですよ。その人にたたき方を教えてもらったんです。兄ちゃんは『ツツタタ・ツツタタ』って8ビートを叩いていて。僕はそれをまねして、あとは小さい頃からいろんな音楽を聞いてきたから自分で勝手に『ツツタタ・ツタツ・タッタ』とか『ツツタッツタ・ツタツ・タッツタ』とかあっという間にたたけるようになってね。結局その兄ちゃんの腕前を1週間で抜いてしまったんです(笑)。

 僕は今までに7人の先生に教えてもらったんですが、みんな共通して『古きを訪ねて新しきを知る』人でね。例えば、南北戦争時代の『モーラー奏法』というのを取り入れた新しいスティックの動かし方を考えてみたり。そういうテクニックを探求していくことが好きなんです(笑)」

 続けて菅沼さんは「今だから言えることなんだけど……」と照れながらプロになる前にキャバレーやダンスホールで演奏していたバックバンド(=ハコバン)時代の話をしてくれた。

「僕がハコバンをやり始めたのは実は中学生の頃なんです。見つかったら捕まりますよ(笑)。制服のツメ入り部分を裏返しにしてタキシード風にして、頭は丸坊主やったからカツラかぶって(笑)。みんなに内緒でこっそり隠れてやり出したんです。面白かったですよ。高校生になっても続けていたんですけど、ある日、バンドのメンバーに『菅沼、お前この先どうすんねん?』て言われまして。その時にプロという道もあるなと思って、それでこの道で頑張ろうと決意して高校も辞めたんです」

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