力道山死去から58年 敬子夫人が語る“レジェンド”の素顔「私には常に優しかった」

「日本のプロレスの父」力道山の命日(12月15日)が今年もやってくる。1963年に不慮の死を遂げてから58年。日本にプロレスが根付いて70年。すべての始まりは稀代(けう)の英雄からだった。

東京・池上本門寺にある力道山の胸像【写真:柴田惣一】
東京・池上本門寺にある力道山の胸像【写真:柴田惣一】

12月15日が命日、プロレスデビューから70年

「日本のプロレスの父」力道山の命日(12月15日)が今年もやってくる。1963年に不慮の死を遂げてから58年。日本にプロレスが根付いて70年。すべての始まりは稀代(けう)の英雄からだった。

 大相撲から転身し1951年にプロレスデビュー。まだまだ敗戦のダメージが色濃く残る時代に、空手チョップで外国人レスラーをバッタバッタとなぎ倒し、日本に勇気と元気を運んでくれた。

 折しもテレビ放送が始まったばかり。まだ個人宅にテレビはほとんどなかったが、街角に設置された街頭テレビや、そば屋に置かれたテレビの前に集結した者たちの留飲を下げ、そして熱狂させた。

 街頭テレビは画面が小さく、後ろからではとても見えない。だが、その熱気を感じたいと集まった群衆を沸き立たせた。

 そば屋では、プロレス中継のある日はそばの値段が跳ね上がった。それでも店には客が押し掛ける。目的は力道山の空手チョップだった。店内は押すな押すなの大盛況。席はすぐ埋まったが「立ち見でも良い」と、店内はそば屋なのにすし詰め状態。立ち食いそば屋の様相を呈していた。

 今思えば、技の数は少ないが、力強く、一発一発の重みは半端ない。そこには常に「闘い」があった。闘志あふれる表情、前へ前へ出る勇敢なファイトスタイルは、敗戦で虚無感の真っ只中にいた日本人に、明日への希望、生きる力を見い出させた。

 力道山がいなければ、ジャイアント馬場やアントニオ猪木は登場しただろうか。日本プロレスから脈々と現代に続くプロレスラーもいなかったのではないか。仮に海外から入って来ても、日本にプロレスは根付かなかったかも知れない。

 ナイトクラブで暴漢に刺され、バリバリの現役のまま伝説の男となった力道山。事件後の症状の報道に国民は一喜一憂。亡くなった時には、人目もはばからず男泣きするファンも多数いたという。

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