コロナ陽性から復活へ 田中ケロリングアナに届く声「僕はケロさんからすべてを学んだ」

新土裕二アナの出で立ちは田中ケロアナがお手本【写真:新土裕二アナ提供】
新土裕二アナの出で立ちは田中ケロアナがお手本【写真:新土裕二アナ提供】

ポール・オンドーフが「ポールお豆腐」も…重ねた努力は裏切らない

 田中アナの緊急事態には頭が真っ白になってしまった。LINEを送ったが、既読にはならない。心配は尽きないが「リハビリに集中されている。イベントでご一緒したときに約束した。『また、2人でコールしよう』と。ケロさんが戻ってくる日を待っている」と力をこめた。

「ケロさんのビデオが先生」と発声術などを学ぶことなく、独学でリングアナとなった新土アナ。田中アナは大東文化大時代に、落研で活躍していた。だからマイクなしでも通る声だ。

 そのころ、演劇部の卒業公演「シェイクスピアの十二夜」が、東京・池袋の大会場で開催された。ところが重要な道化役の部員が急病で出られなくなってしまった。急遽、代役を打診されたのが田中アナだった。

 当時の田中アナは大学4年当時から見習いアナとして、新日本プロレスの巡業に帯同しており、練習する時間は少なかった。だが、主役よりもある意味重要な役どころだった道化師の役を見事にこなし、拍手喝采を浴びている。

 もちろん田中アナも最初からリングコールがうまくできた訳ではない。ポール・オンドーフが「ポールお豆腐」に聞こえると、先輩の倍賞鉄夫アナや大塚直樹アナに指摘され、抑揚をつけること、区切って発音することなどを練習。開場前の会場の隅で、廊下で、その日のコールを何度も練習していた。

 また「初めて見るファンにもわかるように簡単な説明をしたり、リングアナもおしゃれにしたい」とも話していたが、その思いが後に口上となり、華やかな衣装にもなった。新土アナは「努力の賜物ですね」と田中アナの凄さを再認識していた。

 リングアナの概念を覆した田中アナ。選手の素顔を楽しく綴った「旅日記」も人気を博し、リングアナを目指す人からは憧れの対象になった。それは本当に凄いこと。

 一日も早い全快を願っている人はたくさんいる。みんなが、あなたのコールを待っています。

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