大日本・伊東竜二 死にかけた壮絶体験を告白「蛍光灯が背中にブスッと縦に刺さって…」

デスマッチで知られる大日本プロレスのエース・伊東竜二(43)が初の著書「デスマッチ・ドラゴンは死なない」(ワニブックス)を上梓した。茨城大学工学部という名門に進みながら、プロレスラーに"就職"。その後、過激な蛍光灯デスマッチなどで無数の生傷を負いながらも戦い続け、4月にはデビュー20周年の節目を迎えた。波瀾万丈のキャリアを歩み、長年のデスマッチ人生でたどり着いた境地とは何か。歴史を振り返るとともに、今後の目標を聞いた。

大日本のエースに君臨する
大日本のエースに君臨する

初の著書「デスマッチ・ドラゴンは死なない」を上梓 壮絶ヒストリーを公開

 デスマッチで知られる大日本プロレスのエース・伊東竜二(43)が初の著書「デスマッチ・ドラゴンは死なない」(ワニブックス)を上梓した。茨城大学工学部という名門に進みながら、プロレスラーに”就職”。その後、過激な蛍光灯デスマッチなどで無数の生傷を負いながらも戦い続け、4月にはデビュー20周年の節目を迎えた。波瀾万丈のキャリアを歩み、長年のデスマッチ人生でたどり着いた境地とは何か。歴史を振り返るとともに、今後の目標を聞いた。

ーー初めての著書になります。

「ウチの社長、登坂栄児から『2年前に関本大介が本を出したから、20周年で今年は伊東じゃないかな』と言われたのがきっかけですね。要は会社に本を出せと言われたんです(笑い)。そう言われたことによって、じゃあどうせだったら自分のことより大日本のことをあれこれ書いていこうじゃないかと思いました。こんなに厚くなるとは思わなかったですよ。当初は11月4日の両国大会で出す予定だったんですけど、まとまりきらずに1か月延びてしまった。新しい大日本のファンの人たちからしたら知らないことがたくさん書いてあるし、古くからのファンの人たちもいろいろ楽しめると思う。いろんな人に読んでいただきたいです」

ーー本を通じて特に訴えたかったところは。

「いろいろなことがあったけど、大日本プロレスまだまだ頑張ってるぞ、伊東竜二も頑張ってるぞ!っていうことですかね。言いたいことは」

ーーリングに上がりながら一時期アルバイトをしていたという記述もあり、驚きました。

「新しいファンはもちろん、古いファンも知らないようなことですよね。後で社長に怒られるかもしれない。いらんこと書くなって(笑い)」

ーー実際、どういう仕事をしていたのでしょうか。

「特にこれといったスキルを持っていなくて、ただ力があるということなので、工事現場の補助的な仕事ですね。これをこっちからあっちに運べとか。麻布のあたりの現場だったんですけど、要はコンクリート砕いたりすると粉塵が飛ぶので、それが近所に飛んでいかないように水をずっとまいてるとか。『あそこ俺が作った』というのは全くないんですね。時期的には2002年、大日本が一番落ち込んでいた時代ですね。グレート小鹿会長が、『じゃあ俺がちょっとアレしてやるよ』って言ったのが現場をあてがうということだった(笑い)」

ーーレスラー生活20年振り返って。

「いいこともあって悪いこともあってさまざまなことがありましたね。なので、決して平たんではない20年ですかね。特にやることもなくプロレス界に入ってパッとしなかった人間がデスマッチをすることによってガラリと変わって、デスマッチやることによってケガにも泣かされて……。山あり谷ありの人生ですかね」

ーーデスマッチ界では不動の存在になりました。

「まだまだですね。自分の中で目標はグレート小鹿の歳(現在77歳)までというのがあるので、あと40年以上やらなきゃいけないので、まだまだやっと登山を始めたばかりぐらいの気持ちでいます。まだまだこの先にはいろんな景色が見れるであろうし、明るい先が見れると信じています」

ーー伊東さんにとってデスマッチのやりがいとは。

「デスマッチに限ったことでなくて、プロレス自体を好きでやっている。その中で、デスマッチが自分に適正があったぐらいの感覚なんですよ。よく言われる『デスマッチ痛くないんですか?』という問いには、『いやいや関本や岡林のチョップだって痛いよ』ぐらいの感覚なんですよ。自分の中では同じ枠なんですよ。深く考えたことはないですね」

ーー入門する際、両親の反対がありました。

「反対というか大学に入って3年間、特に近況報告をしていたわけじゃないので、普通に学校に通って普通にあと1年もすれば卒業だと思っていたところに、『大学辞めてプロレスラーになる』と言ったものだから、『ちょっと待て、どういうことだ?』と言うので、1回、実家に呼び戻されました。『帰って来い』って。で、帰ってちゃんと説明して、実はほぼほぼ大学にも行ってないし、卒業もできない中で、『こういうのがあって、もうテストを受けて合格したからこっちに行く』っていうところまで説明したら、納得はしてもらいました」

ーーデスマッチファイターに転向した時、受け入れてくれましたか。

「それも特にはしゃべってなかったのですが、ウチの父親の職場の人が東京スポーツを読んでいるようで、『載っているよ』って持って来ていたらしいんですよ。それによって、そういうこと(デスマッチ)をしているというのが分かって。デスマッチに関してはいい顔はしないので実家に帰ったら絶対シャツを脱がないようにしています。いまだにそこは気を使っていますね。今、母親が1人で住んでいるので、息子の傷だらけの姿は極力見せないようにしています」

ーー裸になれないのは母親の前だけですか?

「ですね。試合は見には来ますよ。昔は見てられなかったって言ってたんですけど、キャリアを重ねるうちに『やられる側よりやっつける側になったので、安心して見れられる』って言ってましたね。蛍光灯デスマッチも、岩手で何回か見に来ました。ただ、家でシャツを脱ぐのはちょっと……。風呂から上がったらすぐシャツ着て、裸でウロウロなんてできない。いい顔はしないと思うので」

ボリューム満点の本が完成した
ボリューム満点の本が完成した

ーーこれまでデスマッチで危ない目に遭ったことは。

「デスマッチだと腕の骨折と背中に蛍光灯が刺さったのですかね。入院、手術があったのはこの2つですね。腕は2メートルぐらいの鉄檻があるんですけど、その上に180センチのラダーを乗っけたんですよ。乗っけて、その上から落ちたんです。意図的にではなくて、失敗です。飛んでいこうとしたら足場がガクンと動いちゃって真っ逆さまにリングの上に落ちた。で、右腕の橈骨(とうこつ)、太いほうの腕を折ってしまった。それで半年休みました。30歳の時です。背中に関しては、ロープに蛍光灯を吊るして試合してるんですけどね、それでボンと当たった時にヒザをつく感じで屈んだら、割れた蛍光灯の先がつっかえ棒みたいになって背中にブスッと縦に刺さっちゃったんですよ。それで中の脂肪がデロンと出てきて……。傷自体は蛍光灯の円ぐらいの大きさだったんですけど、その中に破片が残っているからと言われて、肉をビロッと切られてベロンとはがして中から破片を取って、また縫い直しました。背中にギーッと傷がついた。今は全然、分からなくなっていますけど。10年以上前のことですね。10センチぐらい刺さったんじゃないですかね」

ーーそれだけ危険と背中合わせのデスマッチ、体のケアはしていますか。

「体のケアは特にしてないですね。まだバカみたいに酒も飲んでいますし。好きなように生きている感じですかね。毎日3食ちゃんと食べているぐらいです。昔は朝は食わないでとかやってたんですけど、3食食べることによって体の調子を上げています」

ーー体は丈夫なんですね。

「頑丈なんですかね。痛いは痛いですよ。いつまで経っても痛い。10年以上やっても痛いは痛い(笑い)」

ーーこれまで何針ぐらい縫っているのですか。

「縫ったのはすごい少ないです。背中をザックリ切った時に100何十縫いましたけど、それがたぶん一番大きい傷で、あとはほぼほぼ縫ってないです。小っちゃい傷はもちろん、病院に行って縫ってまた抜糸してというのがすごい面倒臭いので、よっぽどの、もうこれはダメだよっていう時以外は病院行かないですね。なので、傷は開いたままです。あとはテープでグルグル巻きにして(治療する)。こないだ北海道で、右ひじがザックリと3センチくらい切れたんですよ、試合中に。タッグマッチだったので、うわっと思いながら、セコンドに『ちょっとテーピング持って来て』と言って、そこでグルグルってやって、そのまま放置です。病院に行かずに。病院に行ったら確実に縫われるレベルなんですけど、縫わずに治しました。面倒臭いじゃないですか。病院に行って縫っても、抜糸は勝手にします。1週間ぐらいしてくっついたなと思ったら自分で糸をはさみで切って取っちゃいます。みんなに何で?って言わるけど、痛くない。診察したら糸切るだけで診察代と言って金取られるんだよって言っています」

ーー過激なデスマッチをここまで続けられる原動力というのは何なのでしょうか。

「デスマッチじゃなくても痛いですからね。デスマッチも痛いし、普通のプロレスも痛い。だったら得意なほうをやったほうがいいじゃないかという感覚ですね。痛いからデスマッチやらないじゃなくて、デスマッチのほうが得意だからやっているという感じですね。デスマッチのほうが表現が1つじゃないので。いわゆるストロングと言われている人たちは体ですべてを表現しなくちゃいけない。デスマッチだと、その中にアイテムというものが加わるので、無限大に可能性を持っていると思うんですよ。そこをただ使うのではなく、頭を使った部分ですね。自分は比較的、大日本の中では身長に恵まれているんですけど、デスマッチ始めた時は体重は下から数えたほうが早いくらいだったので、その中でなんとかひっくり返してやろうという中でのいろんなデスマッチの試行錯誤があったので。一番最初はそれをやることによって、いろんなものを変えるということが目的だった。なので、体以外の部分でも戦えるし、それをお客さんの予想を上回ることをやるところに魅力はありますね」

ーー20年間のベストバウトは。

「世間一般的にもそうだと思うんですけど、葛西戦(09年11月20日、後楽園ホール)が一番ですね。葛西戦って全然モノ使ってないんですよ。サボテン、カミソリ、画びょうぐらいですかね。蛍光灯とか全然。大日本プロレス=伊藤竜二=蛍光灯というイメージがありますけど、その蛍光灯をあえて使っていない葛西戦。そういった意味ではお客さんの想像を超えている、予想をひっくり返していると思うので、葛西戦にします」

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