追悼・浅香光代さん 何度も取材した大学教授が明かす浅香さんの艶っぽい仕草

葡萄を食べる仕草が妙に艶っぽく…

 当時の浅香一座には、のちに「てんぷくトリオ」として世に出る三波伸介と戸塚睦夫が在籍していた。

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 平成10年に三波の評伝を書くことになった私は、初めて浅草の浅香の事務所を訪れ、演劇舞踊浅香流稽古場で話を聞いた。取材後には葡萄をふるまってくれ、すぐ横で葡萄を食べる浅香の仕草が何だか妙に艶っぽかったのを覚えている。

 その後もたびたび、女剣劇全盛の頃の話を聞きに伺わせていただく中で、昭和34年頃に松竹が所有していた浅草・常盤座で不二洋子と二枚看板で競演した時のことはとりわけ熱っぽく何度も繰り返し語ってくれたものだ。

 一本めの「旅土産(みやげ)百両首」では大詰めの後で2人がエプロンステージを回ると、浅香へのファンからの花束が圧倒的に多く、不二は「これだから素人と一緒の芝居はイヤだね」と怒っていたそうだ。

 2本めの「巌流島の決闘 武蔵と小次郎」では、大先輩の不二が宮本武蔵、浅香が佐々木小次郎を演じ、互いに意地をかけた真剣勝負の演技合戦で火花を散らせた。大詰めの決闘場面で、2人が切り結んで交錯し、ストップモーションで立ち尽くしたまま、幕が下りきる寸前に浅香の小次郎がガクッと崩れて膝を着いた。場内割れんばかりの拍手と大歓声。

 不二も「生意気な小娘と思ってたけど、浅香の小次郎なしに巌流島はやれないねえ」と浅香の実力を認めたとか。

82歳でプロレスのリングに

 昭和40年代以降は映画、ドラマ、バラエティー番組、女剣劇以外の舞台など幅広い活動を続ける一方で、浅草公会堂や浅草5656(ごろごろ)会館で定期的に座長公演を行った。20年前には例の“ミッチー・サッチー騒動”で、10年前には82歳でプロレスのリングに上がって高山善廣選手と対戦し、世間の注目を浴びている。

 私は今から3年前、NHK「探検バクモン」の浅草芸能特集の回に浅草芸能史の案内人として出演し、爆笑問題とゲストの浅香さんらを前に、ファイル2冊にコレクションした昭和30年代の浅香一座のパンフレットを見てもらいつつ、その功績について解説した。

 収録が終わると、浅香さんは笑いながら私に言った

「よく持ってたわねえ。こんなの、アタシんちにもないわよ」

杖をついていた晩年もイベントでは名ぜりふを披露し喝采を浴びた

 晩年は足の調子が悪く、杖を使われていたが、それでもイベントに出られる時は背筋を伸ばし、「一本刀土俵入り」の駒形茂兵衛の名ぜりふを披露しては喝采を浴びていた。

 最後にお会いしたのは昨年の夏、内縁のご主人で、ミュージシャン、コメディアン、フィンガー5のプロデューサーとして活躍された世志凡太さんに浅香事務所でインタビュー取材をしていると途中で浅香さんが現れ、あいさつをさせていただいた。

 その時にいただいた浅香さんと世志さんのデュエットソング「あんたがストレス」のCDを聴きながら、在りし日のおもかげを偲ぶことにしたい。

□西条昇(さいじょう・のぼる)1964年7月31日、東京・千代田区生まれ。小学生の頃から寄席や劇場に足を運び、80年に専修大学松戸高校を中退して3代目三遊亭圓歌に弟子入り。三遊亭歌すみとして落語家に。喜劇俳優を経て放送作家、お笑い評論家、演芸評論家として活動し、江戸川大学メディアコミュニケーション学部マス・コミュニケーション学科専任講師(05年~)、准教授(11年~)を経て教授(18年~)。著書に「ニッポンの爆笑王100」(白泉社)、「ジャニーズお笑い進化論」(大和書房)、「笑伝・三波伸介びっくりしたなあ、もう」(風塵社)など。

次のページへ (3/3) 【画像】剣劇女優姿の浅香光代さん 若かりし頃の舞台のパンフレット
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